2018年3月12日月曜日

ミスター・メルセデス 感想

 スティーヴン・キングの「ミスター・メルセデス」を読んだ。彼女に借りた本だが、読むのに半年かかった。私生活で本を読まない病が絶賛継続中である。本を読まない代わりに極を回って犬を捕まえている。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、警察を退職したホッジスが自殺しそうになったりしながら生活していたが、突然昔捕まえそこなったメルセデスベンツによる大量ひき逃げ事件の犯人であるブレイディから手紙が来て、それがいい感じにやる気を出させ、私人の身分で事件を捜査したり、人妻といつも通りのキングの話みたいな感じでセックスをしたり、その人妻がブレイディに自動車ごと吹っ飛ばされたり、ブレイディ自身が犬を毒殺しようとしたら母親を毒殺してしまったりして、最終的にはブレイディによるコンサート会場自爆テロを未然に防ぐべくサイドキックみたいになったハーヴァード大学に進学しそうな黒人青年と精神を病んだ女性と共に行動していくという話である。
 いわゆるミステリものであるが、この本は犯人であるブレイディの視点どころか過去や経歴や(「マザコン」と形容するには大分重症なタイプの)性癖まで描写するので「倒叙」に該当する展開を有する。まあキングだったら人間を書きたいだろうから主要人物の背景や心理を書き込まないという選択肢は選ばれそうもなく、別にこれまで(超自然はあったが)物理的限界を踏まえた奇抜なトリックの連発で生きてきたわけではないので、ミステリでこの展開を選択するのは自然だと思われる。
 個人的には読みながら現代のサイコパスを描写するのは大変なのかもしれないと思った。今回の犯人役のブレイディは社会的に認知されていないが知能が高く、(身体障碍を負っていた)弟の死を「前向きに」捉え、自身の過失で死んだ母親の死体と共に生活を送ることができるという、世間で、より厳密に言うなら世間話や与太話の枠内で捉えることが可能なサイコパスとして描かれ、選択された行動も自爆テロという日本以外の国々ならより関心を自然に引きやすいものが描かれていた。
 一方でそれらが例えば「本当にサイコパスの現代性を描写しているのか?」という問いに回答できるものかと言えば、それは疑わしい。捉えられる範疇の「安心できる」サイコパスの描写でしかなく、現代的な理解不能なレベルとまでは言えないのではないかと思う。例えばブレイディが本当に現代的なサイコパスならホッジスのことは記憶に無く、さらに言えばメルセデスベンツで大量殺人を行ったことも記憶に無いと思う。「大したことではない」ので。途中で犬を殺すとか「歴史を作る」とかの「大したことではない」ものに執着しはじめ、結局はエンターテイメント的なよくある「安心できる」悪役になってしまった。
 もうドラマ化はされているようだが、確かにこの悪役ならドラマ化や映画化はしやすいかもしれない。「安心できる」ので。