2016年9月16日金曜日

ジョイランド 感想

 スティーブン・キングの「ジョイランド」を読んだ。また彼女から借りた本である。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、1973年にデヴィン・ジョーンズという、どこかの海賊船に乗っていたような人間のような名前をした(童貞)貧乏大学生が、童貞も捨てられないまま彼女と疎遠になり、偶然日本で言うと生協食堂みたいな所でジョイランドという遊園地で夏休み期間中にバイトを募集している情報を目にして応募して気に入られて採用され、ひと夏を過ごす内にハリーポッター的な男女仲良し3人組で主人公ではない男の方と女の方がデキて、主人公は着ぐるみを着るのがプロみたいになって、人名救助をやったりしていく内に、ジョイランドのお化け屋敷で過去に行われた殺人事件の真相を(デキた女の役割が大きいと思うが)お化け屋敷の幽霊とか千里眼を持つような「ダークタワー」のジェイク的な少年とか、金持ちの人妻とか一緒に解き明かしていく・・・という話である。つまり今回は比較的明確にミステリー物に位置づけられるらしい。
 正直に書くと、今回の作品は別に一生懸命読む必要もないかな、というのが感想である。まあキング好きならデヴ君の内面描写とか遊園地の「トーク」とか、幽霊の描写を観るだけで満足するかもしれないが、ミステリー物としては全然不器用な感じがしたし、面白くは無いと思う。
 俺の嫌いな点を挙げると、第1に、あのジェイク的な少年の千里眼は特に(本当の意味では)「ジェイク的」にならなかったと思う。というか、彼の能力は別にそこまで道具としてミステリーの結末を描く道具として活かされていないように感じた。あの思わせぶりな(複数回に渡って登場した)「白じゃない」という発言は最後まで暗喩程度でしかなく、幽霊の開放シーンでも彼が何をしたから開放できたのか暗喩程度のような描かれ方しかされておらず、別に彼自身真犯人を突き止めたりしておらず、ジェイクっぽい偽物のような感じでしかなかった。
 第2に、だったら第1の点のオルタナティヴが話を進める道具として用意されているべきなのだが、正直主人公の労力に積み重ねが見えず、むしろ彼の友達の方が役割として大きく見えてしまった。もちろん、一人称の物語なのだから、一見彼が推理して解決したかのように見せかけているが、論理と思考の積み重ねは彼の友達(彼ではなくもう1人の友達を取った女)によって既に用意されており、加えて、彼のひらめきも論理の積み重ねというよりは局所的な直観に近いもので、こちらも既に用意されているように見えてしまった。ミスリーディングを誘うというよりは、別にそもそも不可視のものをいきなり結果だけ登場させているように見えて、無理して書かなくても、と思ってしまう。いつもの超自然的な話を超自然的に解決させた方が一貫したのではないか。
 第3に、第1、2の点が存在する論理的帰結として、彼お得意の超自然的な力の描写は本当にうっすらとしたものになってしまった。ジェイク的な存在はジェイク的な存在でしかなく、幽霊はほぼ無害で、別によくある展開で真犯人に応報を加えたり、あるいはその特定を補助したりもしない。ただ幽霊を示唆させる姿で風船のように浮いているようなものである。そのため、そのまま読むと、読者は、何で異様にトムが(こんな吹いたら飛んでいきそうな)幽霊の存在にびびっているのか、なぜ主人公が幽霊に拘泥するのか、共感し難いと思う。
 以上3点の理由から、俺は別にこの作品は好きにはならない、と思う。また、この3点に日本人的な感覚からもう1点加えるとすると、あの取って付けたような主人公の童貞の捨てさせ方も違和感がある。最初から童貞を明言して「告発どおり有罪」であることは伏線を張っており、(村上春樹の表現を借りると、「銃が登場してきたら撃たせないといけない」ように)、童貞が登場してきたら、多分捨てさせるわけなのだが、それはやはり話を進める上で必要だから、物語のピースの1つだから、という必然性が必要なのだ。別に今作では(もったいぶった割に)それも特に必要だったか・・・?という程度のもので、主人公自体(紙片を割いて表現した割には)それによって別段変わったりしないので、読者との距離は開くばかりだと思った。
 もちろん「日本人的な感覚」と述べたように、「別に現代文学において主人公のセックス描写とか普通過ぎて、話の構成要素としての価値も無いのでは?そもそもアメリカ人はこんな感じで皆やってるんだよ」とかしっかり言われると、はいはいそうですね、それがアメリカではリアルでありフェアなんですね、と、論ずることを止めたい方向に動くのだが。一方で、まあそう言われても結局俺はだったらもう全員デューク東郷みたいな奴を主人公にしろよと思ってしまうのであった。

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