2016年12月30日金曜日

深夜百太郎 出口 感想

 舞城王太郎の「深夜百太郎 出口」を彼女から借りて読んだ。九十太郎以降はこれまで2~3ページで終わっていたのに突然長くなって4ページ以上になったりしたり、九十九太郎で久し振りに九十九の羅列を目撃したりした。九十八太郎の「寝ずの番」とかは多様な車という現代性の象徴と、百鬼とも呼べる妖怪の群れがこの人の作品らしい動きを伴ってぶつかり合うような感じであった。しかし、俺は「入口」の方が好きであった。
 「出口」の中で好きな作品は、俺が「入口」の感想で触れていた「終わり」についての物語に対する回答のような六十太郎の「僕の中の鏡」であった。描写は「車の河」のように抽象的ではないが、謎の少女から語られる「まあ≪終わり≫なんて別にどうでもいいっちゃどうでもいいから」という台詞が、終わりに関する全てを表していた。
 また、九十五太郎の「あぶり出しメール」では、久しぶりにこの作者の書く会話劇といったらこんな感じ、というやり取りを目撃した気がする。多くのこの作者の作品で共通する要素の1つであるが、大体の会話劇で「ぐだぐだ無理矢理相手を逆なでするような子供じみた理屈をぶつけあって結局会話上で無理矢理和解しない感じ」が描かれるのだが、この短編はほぼそれだけが構成要素となっていた。この作者が会話劇で描く「分かり合えない感じ」については、特に女性を話者として描いている際の描写が好きである。そこに現代性を感じる。まあ10年以上前からこんな感じなので、今は新しい現代性が別にあるのかもしれない。

2016年12月18日日曜日

FF XV 感想

 まだ隠しダンジョンが2つぐらい残っているらしいが、先日件のを倒してタッカに報告しに行った段階でトロコンを達成し、もうとりあえずいいかという気分になったので感想を書くことにした。
 単刀直入に感想について言及しておくと、まあ普通に良いゲーム、ぐらいの評価が妥当なんじゃないかと思う。この作品の実質的な課題になっているようなオープンワールド化については、別にGTAほどの自由度は存在しなかったが、それでもFFにとって新しい取り組みとしては全然面白い部類である。大半の人々は普通に何十時間もやれるのではないだろうか。
 また、このゲームに関する賛否両論の「否」の方の意見として、「ホストみたいなキャラクターが受け付けられない」、「キャラクターの設定・性格が気に食わない」といった見解が検索すると散見されるが、個人的には別にそこまででも、という程度でしかなかった。俺はBrotherhoodも観たし、その後気になったのでKINGSGLAVEもPS Storeで400円ぐらいで借りて観たが、最後まで進んでもメインキャラクターの4人は「嫌い」にはならなかった。むしろ全員に対して好感を抱いたぐらいである。
 特にノクティスやプロンプトについては声質や発言内容から考えて、(特に日本では)まず万人受けしないとは思う。ノクティスは何回も「だるいなー」と言い、プロンプトは何回も「焼肉食べたい」とか言う。ノクティスは「~だわ」という言葉遣いをずっと一貫してやり続ける。それらは「最近の若者のイメージ」の悪い部分だけ悪意でピックアップして伸ばしたような感じなのだが、あくまでイメージなので、実際の「最近の若者」はあんな感じではない。むしろイグニスから覇気や元気など更に抜いた感じが、実際の「最近の若者」だと思う。その意味で、キャラクター設定に関わった人間自体は「最近の若者」ではなく、それを「最近の若者のイメージ」で、どうにか作為的に描こうとしている人間たちなんだろうと思う。
 しかし、別に俺はこいつらを結局嫌いにならなかった。理由を言語化するのが難しいのだが、別にこいつらはこいつらで最初から最後までこんな感じだったので、ある意味俺にとっては一貫していたからだと思われる。
 他方で、(この点も世間で散見される意見だが)、他の「否」の点に触れると、9章以降の物語の描き方については、明確にこのゲームにとって穴と言えるようなものであった。この点も手短に最も大きな理由だけ述べれば、第1に帝国を仇敵として戦わなかったことが指摘できる。あれだけKINGSGLAVEと物語冒頭で主人公側と帝国との対立構造を描いたものの、9章以降で仇敵だった帝国は勝手に自滅しており、主人公側は別の存在と戦うことになる。その結果、スクウェアエニックスがこのゲームのために多面的に積み重ねてプレイヤーに抱かせてきた、物語の一貫性に関するイメージを自分で台無しにしてしまい、プレイヤー側には敵側と戦う理由が弱く、不明瞭に見えてしまう。勝手に自滅した帝国は奪ったクリスタルとか主人公の領地とかも悪用している描写が全く描かれず、対立する相手方から、新たな敵による被害者に倒置されてしまった。
 第2に、新たな敵に悪としての魅力が無い。簡単に言うと、有無を言わさずに主人公側を殺すのではなく、ちゃんと育った主人公側を復讐のために殺すというのが動機なのだが、これが本当に回りくどいので、全然対立する相手側と捉えることができない。ちゃんとKINGSGLAVEなどを観て予習したプレイヤーであればあるほど、あの(「元」敵だった)帝国側の、有無を言わさない悪性が目に付いてしまう。「新」敵の悪さは、単に世界を夜だけにしたということと、シガイを増やした、という「結果」だけ突然示されており、その過程は全然描かれておらず、悪へ至る描写が薄い。本来ストレートに描くところを無理矢理ぐにゃぐにゃした描写で「最近の物語ってこういう感じ」にしたような形になってしまっている。他の部分が普通に面白いゲームになっているだけに、これらの物語としての欠点が目に付いてしょうがない。
 スクウェアエニックスには物語を王道で描ける人材が居ないのか、それとも企業内に物語を無理矢理ぐにゃぐにゃにした方が最近は受けるとか勘違いしている人が居るのか、原因は不明である。FFXVの物語については、上記の通り個人的には擁護不可能で、明確にこのゲームの価値を損なっていると思う。FFシリーズの物語を自らの手で台無しにする流れは、残念ながら結局今作でも終わっているとは言えず、今後のシリーズに期待するしかない。

2016年9月18日日曜日

ドクター・スリープ 感想

 彼女から借りていたスティーヴン・キングの「ドクター・スリープ」を前日の昼ぐらいから読み始め、今読み終えた。久し振りにぶっ続けで読みたくなる長編であり、こういう本があると、やはり人生を使って本を読むということは、それ自体が良いものだと思わされる。酒を飲むのと同じである。読まずにいられない。
 そして、今Googleで検索して、「ドクター・スリープ」が映画化されることになっている情報を目にして、安堵した。当たり前である。これを映画化せずに何を映画化したら良いのだろう。俺がワーナー・ブラザーズの企画担当とかだったら、これを読んで1日後には上司に熱烈な企画書を書いて提出している。
 いつも通り適当なあらすじをまず並べると、「シャイニング」で“かがやき”を持つ少年として、オーバールックの惨劇と喪失を経験したダン・トランスは、ろくでもないアル中に育って各地を泥の中を這いずり回るように転々としていたが、やがてティニータウンの「リヴィングトン館」なる、終末医療の本部のようなホスピスで勤務し、“かがやき”を使って死の淵に至った者に、その淵を安らかに超えることを「ドクター・スリープ」として手伝っている内に、自分よりも更に強い“かがやき”を持つアブラという少女と出会い、やがて、アブラなどの“かがやき”を持つ少年少女の命気を狙い暗躍する「真結族」との闘いに身を投じていく・・・という話である。以上の造語を見ただけでキングの長編っぽい匂いしかしない。つまり面白そうな匂いしかしない。
 この作品についてはキングの長編が好きならほぼ確実に好きになるし、ぶっ続けで読みたくなるであろうことに疑いが無い。敵側が少し弱い、というよりダンとアブラの“かがやき”を持ったコンビが強過ぎるが故に、途中で敵側を応援したくなるぐらいだったが、その他の点では(あれほど書き尽くした)「シャイニング」で語られなかったことが丁寧に回収され、単に回収するだけではなく、それ自体が物語にとって必要だったと思わされる措置が施されていたと思う。「シャイニング」であれだけの思いをして喪失し、「その後の人生」を獲得した前作主人公であるダンが、かがやくどころか、アルコールの闇の中でのたうち回っていた、というのは、素直に残念な気分にもなるだろうが、それが物語の筋として正しい、ということも十分分かるのだ。
 余談だが、キングが創造した特殊能力の形容である“かがやき”(シャイニング)という言葉は、俺がもの凄く好きな特殊能力の形容の仕方である。これほどセンスに溢れた造語は無いというぐらいセンスに溢れていると思う。言ってしまえば超能力なのだが、“かがやき”と表現することで、読者は色を想起して能力を闇やホレス・ダーウェントなどの「怪物」と対比することができ、一辺倒ではない能力の揺らめきを明滅の如く感じ取ることができるのだ。
 もちろん、登場人物は別に「ククク・・・俺の“かがやき”(シャイニング)を喰らえ!!」とか言ったりしないのでそこは安心して欲しい。「シャイニング」も「ドクター・スリープ」もそんな安い表現の彼岸の彼岸と呼べる場所に位置している本である。

2016年9月16日金曜日

ジョイランド 感想

 スティーブン・キングの「ジョイランド」を読んだ。また彼女から借りた本である。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、1973年にデヴィン・ジョーンズという、どこかの海賊船に乗っていたような人間のような名前をした(童貞)貧乏大学生が、童貞も捨てられないまま彼女と疎遠になり、偶然日本で言うと生協食堂みたいな所でジョイランドという遊園地で夏休み期間中にバイトを募集している情報を目にして応募して気に入られて採用され、ひと夏を過ごす内にハリーポッター的な男女仲良し3人組で主人公ではない男の方と女の方がデキて、主人公は着ぐるみを着るのがプロみたいになって、人名救助をやったりしていく内に、ジョイランドのお化け屋敷で過去に行われた殺人事件の真相を(デキた女の役割が大きいと思うが)お化け屋敷の幽霊とか千里眼を持つような「ダークタワー」のジェイク的な少年とか、金持ちの人妻とか一緒に解き明かしていく・・・という話である。つまり今回は比較的明確にミステリー物に位置づけられるらしい。
 正直に書くと、今回の作品は別に一生懸命読む必要もないかな、というのが感想である。まあキング好きならデヴ君の内面描写とか遊園地の「トーク」とか、幽霊の描写を観るだけで満足するかもしれないが、ミステリー物としては全然不器用な感じがしたし、面白くは無いと思う。
 俺の嫌いな点を挙げると、第1に、あのジェイク的な少年の千里眼は特に(本当の意味では)「ジェイク的」にならなかったと思う。というか、彼の能力は別にそこまで道具としてミステリーの結末を描く道具として活かされていないように感じた。あの思わせぶりな(複数回に渡って登場した)「白じゃない」という発言は最後まで暗喩程度でしかなく、幽霊の開放シーンでも彼が何をしたから開放できたのか暗喩程度のような描かれ方しかされておらず、別に彼自身真犯人を突き止めたりしておらず、ジェイクっぽい偽物のような感じでしかなかった。
 第2に、だったら第1の点のオルタナティヴが話を進める道具として用意されているべきなのだが、正直主人公の労力に積み重ねが見えず、むしろ彼の友達の方が役割として大きく見えてしまった。もちろん、一人称の物語なのだから、一見彼が推理して解決したかのように見せかけているが、論理と思考の積み重ねは彼の友達(彼ではなくもう1人の友達を取った女)によって既に用意されており、加えて、彼のひらめきも論理の積み重ねというよりは局所的な直観に近いもので、こちらも既に用意されているように見えてしまった。ミスリーディングを誘うというよりは、別にそもそも不可視のものをいきなり結果だけ登場させているように見えて、無理して書かなくても、と思ってしまう。いつもの超自然的な話を超自然的に解決させた方が一貫したのではないか。
 第3に、第1、2の点が存在する論理的帰結として、彼お得意の超自然的な力の描写は本当にうっすらとしたものになってしまった。ジェイク的な存在はジェイク的な存在でしかなく、幽霊はほぼ無害で、別によくある展開で真犯人に応報を加えたり、あるいはその特定を補助したりもしない。ただ幽霊を示唆させる姿で風船のように浮いているようなものである。そのため、そのまま読むと、読者は、何で異様にトムが(こんな吹いたら飛んでいきそうな)幽霊の存在にびびっているのか、なぜ主人公が幽霊に拘泥するのか、共感し難いと思う。
 以上3点の理由から、俺は別にこの作品は好きにはならない、と思う。また、この3点に日本人的な感覚からもう1点加えるとすると、あの取って付けたような主人公の童貞の捨てさせ方も違和感がある。最初から童貞を明言して「告発どおり有罪」であることは伏線を張っており、(村上春樹の表現を借りると、「銃が登場してきたら撃たせないといけない」ように)、童貞が登場してきたら、多分捨てさせるわけなのだが、それはやはり話を進める上で必要だから、物語のピースの1つだから、という必然性が必要なのだ。別に今作では(もったいぶった割に)それも特に必要だったか・・・?という程度のもので、主人公自体(紙片を割いて表現した割には)それによって別段変わったりしないので、読者との距離は開くばかりだと思った。
 もちろん「日本人的な感覚」と述べたように、「別に現代文学において主人公のセックス描写とか普通過ぎて、話の構成要素としての価値も無いのでは?そもそもアメリカ人はこんな感じで皆やってるんだよ」とかしっかり言われると、はいはいそうですね、それがアメリカではリアルでありフェアなんですね、と、論ずることを止めたい方向に動くのだが。一方で、まあそう言われても結局俺はだったらもう全員デューク東郷みたいな奴を主人公にしろよと思ってしまうのであった。

2016年9月15日木曜日

深夜百太郎 入口 感想

 舞城王太郎の「深夜百太郎 入口」を彼女から借りて読んだ。最近はさらに輪をかけて本を読まなくなり、自分で買った本も別に読まないという、だったら買うなという意味不明な状況になり、その状況になるのが嫌なので本も買わなくなり、結果として全く本を読まないという状況であった。しかし彼女から借りる本は常に読み、しかも昨日とかに借りた本を翌日に読み終わっている状態なので、俺は本が好きなのか嫌いなのかよく分からない。
 さて、今回の舞城王太郎の作品は、計100の「太郎」=「物語」から成る短編集であり、わかりやすく表現すると舞城的な百物語となる。「舞城的な」とか書くと意味が分からないが、彼/彼女の作品を読んでいると「ああまたこんなことしてんのか」と思う響きである。
 今回の「入口」で俺が一番好きだったのは二十七太郎の「車の河」であった。今回の短編集のほとんどの作品に共通する点として、美しそうに積み重ねたものをぶっ壊す、という点が挙げられると思うが、この「車の河」はそれがよく表れていた作品だったと思う。以前「淵の王」の感想で書いたぶっ壊しの美学というよく分からないものが結実した作品であった。
 「淵の王」の感想で言及したことをなんとなく今総称した表現が「ぶっ壊しの美学」なる言葉であるが、この「車の河」は、以前の感想で触れた「無駄口を数える」と共通し、もっと書くと他の短編と共通し、舞城王太郎がぶっ壊すために大体用意する道具が揃っている作品だったと思う。まず、舞城王太郎は最近物語=世界をぶっ壊すための道具に子供を使う。「車の河」には(「いつも通り」と言って良いかもしれないが)、赤ん坊を高所から落とす表現が用いられていた。他の作品でも大なり小なり子供を物語=世界をぶっ壊すための道具に使っている部分が見受けられるのだが、非常に直接的に表れているのがこの「車の河」である。
 また、物語=世界は女によって破壊される。単にこの作者が女を描くのが上手いから俺の目に付いているだけなのかもしれないが、「深夜百太郎 入口」における多くの短編で破壊者は女であり、その自省が世界を殺しているのである。これも最近の傾向だと思う。太宰治の斜陽で登場した創造と破壊の化身のようなかず子みたいな奴が内省により自分の世界を自分で閉じるのだ。「よい子」を生む存在が破壊を司る。
 このような破壊を楽しめる作品が「車の河」であったのである。単にこう書くといよいよ危ない人間なのかな、という感じで見られそうだが、そもそも物語自体誰かが字を使って創造した世界であり、創造されたものである以上、結末部分で「終わり」を描く以上は、何かしらの破壊が必要なのだと思う。それは時に登場人物が幸せになることで世界の終焉とする場合もあれば、例えば登場人物が全員死亡して世界の終焉とする場合もあり、どちらも物語=世界の終わりとしては、創造されたものが迎える「終わり」の描き方としては、正しいのだ。ずっと楽をして創造し続けるわけにはいかないのだから。別に破壊は単に破壊として嫌がらせの道具として存在しているわけではなく、本来は正当な創造こそが正当な破壊を必要とするのだから。
 「車の河」では最終的に破壊を司ることを自覚する主人公は死ぬことは無いが、それは破壊を求めているからこその結末であった。なぜなら、主人公は「この世に留まる」ということ、すなわち永遠の創造を行うことが本当の間違いで、正しさが物語=世界に存在しないということを自覚していたからである。熟慮された終わりが本当は物語に必要であるということをこの作者は自覚しているのだと思う。
 ところで、以上のような小難しそうに見えるいつも通りの感想に加えて、自覚された馬鹿みたいな物語=世界の終わり方も、本作においては楽しめる要素だと思う。三太郎の「地獄の子」とか、十六太郎の「山の小屋」とかの終わり方は、俺と同じような破壊マニアの終わり好きには垂涎ものの馬鹿さ加減だと思う。

2016年9月10日土曜日

東京スカイツリーに今更行った話

ライトアップされたスカイツリー

 今更東京スカイツリーに行くことに無理矢理して行ってきた。思い立ったのが夜だったので夜のライトアップされたスカイツリーを観に行くことになった。

行ったタイミングでちょうどやっていた催し物

 スカイツリーへは押上という半蔵門線の最果てのような所から歩いたり、東武スカイツリーラインという、名前自体にもスカイツリーとか固有名詞が乗っているような電車でも行くことができる。俺は後者で行って「とうきょうスカイツリー駅」とか固有名詞が入った駅から歩いた。

金魚(模型)

 「とうきょうスカイツリー駅」からは大体5~10分ぐらいは歩く。スカイツリーのある所はもう複合商業施設みたいな感じで1日潰せるような感じである。下まで着くと(突然行くことを思い立ったので)2060円もする当日券を購入し、意匠をこらしたエレベーターに誘導された。「天望回廊」なるものもあり、これは追加で1030円支払うことで観ることができるらしい。「2060円」という高額であることを感得させる数字に俺は若干の嫌悪感を抱いてしまったので買わなかった。なので詳細不明である。エレベーターに乗るとフロア350まで連れていかれる。

金魚(実物)

 当日、スカイツリーでは"WIPE UP!"なる催し物が俺が着いたタイミングで既に開始されており、それを観覧したり模型の金魚を観たり本物の金魚を観たりした。俺が着いたタイミングはもう最終時刻と言って良いような頃合いであったが、老若男女、国籍を問わず多くの人々が2060円を支払ってその場所に来ていた。

2050円の夜景

 催し物が終わった後にいろいろフロアを観たり外を眺めたりした。夜行った方が夜景が綺麗なので案外良いのかもしれない。俺が行ったタイミングだともう店とかも閉まり始めているような頃合いだったのでちょっと前ぐらいが良いのだろうと思う。
 なお、東京スカイツリーということなので期待したが、コイキングぐらいしか捕まえられなかった。

2016年6月18日土曜日

名古屋城へ行ってきた話

名古屋城

 この前彼女と名古屋城に行ってきた。特に理由は無い。城が観たかったのである。たまたま本丸御殿が公開されていた。

虎の描かれた屏風

 名古屋城は織田信長が生誕した場所とされる。行ってみたら分かるのだが、改修された部分が多く分かる通り、日本の戦時中空襲で特に天守を中心に破壊され尽くしたので、現在観ることができるのは復元されたものが多い。土塁や堀や門はウィキペディア情報によると比較的多く残っているらしい。

最近公開された場所の様子。奥の一段高くなった場所で偉い人間が客人と会っていたらしい。
名古屋城は鯱で有名だが、中に入るとまずバイトで入っていると思われる忍者が他の客と記念撮影しているのが目に入った。忍者と言ってもNARUTOや忍空型ではなくFFのジョブ的な伝統的な装束を身にまとったタイプである。
 そのまま暫く進んで店屋が多く並んでいる場所を通り抜けた所で、前田慶次が歩いていた。
 是非写真を載せたい一方、他の人間のご尊顔も写っているために載せられないのだが、案外まともな見た目である。その前にくまモンのお面をかぶった人間とすれ違ったので、なるほど、傾奇者とか言っているし、戦国BASARAとか花の慶次のパチンコとか、前田慶次は最近そういう派手な解釈がされている表現が目に付くので、傾奇という概念をくまモンのお面を被ることで表現したのだな、と思っていたのだが、それは本当にくまモンのお面を被ったおっさんであった。後から護衛の足軽1人を引き連れて日傘のようなものをさして異様に面倒くさそうな感じで歩いてきたのが名古屋城の前田慶次であった。
 つまり、名古屋城の前田慶次役の人は別にドラクエの遊び人やヘラヘラしている感じを傾奇の概念として表わすのではなく、不機嫌そうに振る舞っているヤンキーのような体裁、ファミレスやコンビニの店員に偉そうな態度で怒鳴りつけるようなステレオタイプ的な「ガラの悪い人」で表したのだ、と彼女に言ったりした。
 「言い換えれば、名古屋城における前田慶次という表現装置は、『傾奇』という常況を逸した人の成について、単に派手な装束を纏うなどの外観を選択しなかった。『傾奇』という概念の1つの側面としての乱暴・狼藉=他者の利益を簒奪することに関する脅威を『面倒臭そう』な顔をして歩くことで表現し、それを現代における前田慶次の同一性の発露として見出したのである。それは、すなわち『傾奇』という概念の名古屋城的な展開でもあり、現代に生きる若者の鬱屈した自我の芽生えと、彼らが抱える社会性の間に生じた葛藤というテーゼに対する解答である」、とは彼女に言わなかったりした。

2016年5月14日土曜日

IIO IIO T.M.Revolution ALL TIME BEST 感想

 新しく出たTMRのベストアルバムを購入した。彼の歌は俺としてはバイトなり、修行なり、準備なり、レベル上げなり、何か書く時なり、とにかくいろいろ丁度聴きたい瞬間があったので、世界中のどの歌手の歌より聴いているものばかりである。TMRは昔のCDが何百万枚とか売れてる時の方が良かったとか言う人が居るが、俺としては西川貴教本人がこの前言っていたように今が一番良い。今回のアルバムだと、特定の曲を除き、Disc1じゃなくてDisc2以降が好きである。
 個人的に一番好きな曲は永世1位のZipsで、それもUNDER COVERじゃない方で、SEVENTH HEAVENに入っている方だが、今回のベストアルバム内に限定して1位から5位まで無理やり順位付けすると下記。

1位 LOVE SAVER

 所謂ラブセである。これも俺はUNDER COVERじゃなくて今回のアルバムに入っている方が好きである。彼の曲の中だと最速に近いテンポで、一般的には「ライブで歌うと外れ無し」と認識されている生歌向けの曲。一般的にはWHITE BREATHのように知られているわけではないが、TMRの曲が好きであれば確実に知られている曲。俺は大学生の時に新聞を読みながら聴いていたので新聞のテーマの印象が強い。Disc1には昔のヒット曲とされる曲ばかりがあるがどう考えてもDisc1で一番好きなのはこの曲。

2位 Naked arms

 Disc2の中で俺が一番聴いたであろう曲。SWORD SUMMITの対であり、ライブだと連続で歌われているイメージが強い。「戦国BASARA」とタイアップした曲はどれも和風のテイストが取り入れられているが、Naked armsとSWORD SUMMITの2曲はその完成形だと思う。俺としてはTOEFL-IBTの前に聴いていたのでTOEFLのテーマのような認識。

3位 HEART OF SWORD ~夜明け前~

 「るろうに剣心」のEDテーマとして長めに放映された結果、TMRの存在を世間に認知させるきっかけとなった曲として知られている。これはDISC1の3曲目だが、3~9番ぐらいまでは別にファンじゃなくても知っている曲ばかりが並び、特にHEART OF SWORDの次がLEVEL 4、HIGH PRESSURE、WHITE BREATHと目立つものばかり。
 俺は「るろうに剣心」のアニメで、刃衛戦で剣心が抜刀斎に戻った時に目の色が変わる表現を観てから最終巻が出るまで原作を買い続けたものの、残念ながら「るろうに剣心」のテーマとしてはOPのそばかすとEDのメンバーが薬物使用で逮捕されるまで流れていたthe Fourth Avenue Cafeの印象が強く、HEART OF SWORDがなぜかほぼ印象に無い。しかし、Disc1では2番目に好き。

4位 Inherit the Force -インヘリット・ザ・フォース-

 最近の曲で、とある残念なゲームのテーマとして知られてしまった。しかし、曲とその筋トレ風景PVが非常に好きであり、Disc3の中では一番好きになった。このPVについては、俺が長らく思っていた、彼の曲と修行時間との親和性がやっと表現されていて嬉しい。TMRの曲は他の曲も個人的にはレベル上げや修行にぴったりの曲が多いと思う。

5位 Meteor -ミーティア-

 21世紀に制作されたガンダムシリーズの中で、最も主人公に必要とされた演出を行った回に流れた曲として知られる。vestigeと迷ったがまああの印象でこちらの方が上になった。PVは曲の使われ方に反して世にも奇妙な物語風である。

2016年3月26日土曜日

DARK SOULS III 感想

 1と2について感想を一切書いていないが、ダークソウル3を先ほどクリアしてぶっ倒れるようにちょっと眠って今起きて感想を書きたくなったので感想を書く。
 ダークソウルシリーズは現時点で3が最高傑作だと思う。2が本当に世間で批判されているまま面白くなくて、DLCすら雪原とか途中まで良かったものを台無しにする部分があり、やっぱり日本人がいくらシームレスマップのリアルな魔界村みたいなことをやりたいって言ってもダメなのかなと思っていたのだが、今作はこれまでの良かった所を全て入れ込み、ダークソウルの良い部分は極力残したまま、改善できる部分をきっちり改善した素晴らしい作品になった。もうシリーズは作られないかもしれないが、今後も続く場合はドラクエ3と同じ立ち位置ができる作品だと思う。
 一応いつも通りあらすじを書いておくと、プレイヤーは「火の無い灰」という、篝火の化身というかもう過去作のようなただの不死人じゃなくて概念みたいなものになっていて、5つの玉座のある祭祀場に、5人の薪の王が帰ってこないので、「帰ってこないのであれば殺して遺灰を持ち帰れば良い」というかにもソウルシリーズっぽい考えの下、5人の「薪の王」を殺してくる話である。多分やったことが無い人は「薪の王」とかいう概念でもう意味不明だと思うが、話の筋としてはこれで必要十分なのである。簡単に言うと帰ってこない王様達を全員殺してくる話である。
 俺にはダークソウルを1からやっていてやり続けていることがあり、①1週目の装備は上級騎士、②ステ振りは上質(筋・技等半のタイプ)、③必ずクレイモアを使う、というものである。1では森まで走っていけば取れたし、2では売られるようになる上級騎士装備が今作ではかなり進まないと手に入らないので非常に困ったが、予定通り結局いつもと同じやり方で最後までやれた。2でいつもと別のことをやってみようとしたのだが、結局気づいたらクレイモアを振り回していたので、もう流れに任せてこうなっている。
 今作では廃墟と化したアノール・ロンドも印象に残ったのだが、やはりシリーズを愛する者としては、火を継がない方のエンディングに初めて正しさを見出せた。デモンズソウルや過去作のような火防女の頭を踏んでいったりする闇の王エンドではなく、今作では火防女と一緒にゆっくり消灯エンドであった。いくら綺麗にやっても世界から火が消えるわけで、一切希望は無いのだが、そこに希望を見出すような火防女の話と、最後の彼女の可愛い台詞を聞くと、まあ別に全部終わってもいいか、と思える。

2016年2月13日土曜日

大阪のエキスポシティに行ってきた話

トップ画像はダイオウグソクムシである。

 この前彼女と一緒に大阪府吹田市の万博記念公園に建てられていた「エキスポランド」の後に建設されたエキスポシティに行ってきた。もっとも実質的にはNIFRELという新しいタイプの水族・動物館にしか行っていないので、ほぼNIFRELの話である。ちなみに、俺の彼女はずっとNIFRELのことをニフラムニフラムと連呼していた。
 
もっと近影を撮ればよかったが一応エビがメインである。

 NIFRELは「生きているミュージアム」と自称するだけあり、水族館・動物園マニアの俺からしても他と趣向が違う展示方法が採用されていた。例えば、写真の水槽などは大水槽が一切と言っていいほど存在せず、美術館などと同様に小さいショーケースのような展示用水槽が点在し、そこを巡っていく作りになっている。

「~ジョー」という名称シリーズの魚。この「~ジョー」という魚が沢山展示されているエリアが存在していた。

 魚のエリアでは魚ではないダイオウグソクムシが一番インパクトがあった。一部でカルト的な人気を誇る彼(彼女)が、おそらく生きているであろう姿を間近に観察することができるだけで、ここには価値があった・・・!

売りにしているホワイトタイガー・・・・の鼻の穴である。

 一応NIFRELには水族館や動物園のくくりが無いため、途中から動物エリアに切り替わるようになっている。動物側の売りにしているのは明らかにホワイトタイガーだったのだが、俺達が行ったときには高所でずっと寝そべり続けていて、写真のように鼻の穴しか見えない状態であった・・・。

ミニカバ。

 動物エリアで印象に残ったのはミニカバであった。彼は俺達が来たときには非常に活発に動き、水面に浮かんでいる木くずや餌箱みたいなものを押して水上に上げる、という遊びに熱中していたのだが、その後この写真の砂場で猫みたいに伸びて寝るという非常にあざとい動きをしてみせた。

最後はガンダムである。

 その後、ガンダムエリアを見たりした。やろうと思えば1日ずっと滞在できるような場所であったと思う。

2016年1月31日日曜日

MHX 感想(4)

 全然できていないが表のラスボス?とされていたオストガロアを狩猟してHR上限解放まで行っている。結局ここまでは上位ディノバルド一式を使い続けた。

1.骸龍オストガロア(討伐)について

 集会所を進めていくと、(全然盛り上がらないが)不明瞭な理由で骸龍オストガロアを狩猟するように言われ、今回はきっちり討伐するところまでやれる。
 戦っていると次第に腕の骨とかが剥げて分かってくるのだが、骸龍オストガロアは古龍種でもヤマツカミに近いタコ型のモンスターであった。頭が二つあるのではなく、腕が二つで、骨を剥がしまくっていると別種の腕になったり、タコの口の部分から謎のビームを撃ってきたりする。
 今回については、MH4Gの時のような体力面での理不尽さは感じることもなく、普通にやっていると30分程度で終わると思う。
 狩猟するとHR解放できますよ、と言われ、とにかくHRの数値が上がる。今作こそは単に数値が上がるだけではないことを期待するばかり。

2016年1月1日金曜日

2016年の標的

今年も正月なので2016年の標的の時間である。大体できてたりできなかったりだが、昨年は特にできなかった年だった。今年の標的は下記。

1.何か書く

昨年は何か書くことの準備をしただけで1年が終わってしまった。本当に良くないと思うので今年はもう書いている。

2.彼女に会う

昨年は全然会えなかったので今年、というか今年以降はもっと会えるようにしたい。

3.部屋を綺麗にする

俺にとって一番難しい標的である。部屋がとにかくひどい状態で挿絵の高槻泉とかコムイ室長の部屋みたいな状況が1年ぐらい続いていて、しかも本を読むというより紙の記述を確認する状態というよくわからないがそうとしか言語化できない状態である。一生俺の場所はこうなるのかもしれない・・・ので努力目標である。