2015年1月6日火曜日

淵の王 感想

 何か最近本屋で日本人作家の本が何も面白そうではなく、少数の面白いことを知っている司馬遼太郎などの作品は軒並みまだ読んでいないのが長編しかなく、長編は疲れるので読みたくなく、どうしよう、困った、と思って真面目な顔をして本屋を去っていたのだが、また彼女に舞城王太郎が『新潮』2015年1月号に掲載した「淵の王」という新作を薦められたので、読んだ。読むことになった。
 いつも通り適当な概要を書いておくと、3人の主人公がそれぞれの人生を過ごしながら、西尾維新の『鬼物語』で出てきたような「くらやみ」に遭遇して、2人目まで負けて、3人目で勝ったと思われる話である。いつも通りこの作者の作品の概要を真面目に書くと意味が分からないが、こんな話である。また、今回はそれぞれの主人公の1人称ではなく、それぞれの主人公と共にある文字通り「スタンド」みたいな存在の独白が、語り部の役割を果たす仕組みになっているので、正確には6人の主人公が「くらやみ」に遭遇して、5人目と6人目で「くらやみ」の正体と対決してなんとなく結末に至る話であった。
 実はこの「淵の王」を読む数日前に、半年前に買った文庫版の『イキルキス』に収められている「アンフーアンフー」と、「無駄口を数える」という書下ろしの短編を今更読み、「イキルキスもアンフーアンフーも正直面白くないが、『無駄口を数える』という短編については良いな。特に錯乱した主人公の友達が突然悪意によって主人公の子供を窓から投げ捨てる所の描写が優れている」と思っていたのだが、この「淵の王」も、共通する部分で秀逸だと思った。
 最近この作者は日常をぶっ壊して読者を焦燥させるのが上手くなっている、と思う。『煙か土か食い物』や『暗闇の中で子供』などの昔の作品は、「積み上げた日常で生み出すことのできる安心感をぶっ壊す」のではなく、「最初から最後までぶっ壊しまくる」という感じであった。ところが、最近はちゃんと人間の人生を常識的な範囲でちゃんと描くようになり、登場人物は必要な手段を講じ、努力をして、仕事をして、恋愛をして、セックスをして、結婚をするようになり、その上でぶっ壊されるようになった。今回の作品では、(5人目と6人目は物語を終わらせるために作られているので別にして)特に1人目と2人目、3人目と4人目はきっちり学生の頃からの成長の様を描き、「人生を歩んでいる姿」を描写した上でそれぞれの人生をぶっ壊す様を描く作業が行われている。その結果、「くらやみ」という人間の悪意に「敗北」した1人目と2人目、3人目と4人目の壊れる様は、非常に儚く、自然に残念に思える作りになっていた。
 また、5人目と6人目でおなじみの福井県警とか出てきて、またどうでもいい謎解き要素が描かれるのか、と思ったが、そういったことは全くなかった点も良かったのではないか。今回はどうでもいい謎解きを主人公がすることで勝利するのではなく、キング的な超自然的な手段を講じて、超自然的な対象を撃破する物語であった。

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