2014年4月24日木曜日

始まりの始まり

 査読の結果を眺めて、また自分が文章を書くことに向き合わなければならないという現実に向き合い、それと同時に本当の始まりが始まったと思った。
 俺は本当に馬鹿で、この論文をのたうち回りながら書いてもそれで何か貰えるわけでもなく、俺はまたどんどん人間性を失って嫌な人間になり、他人に関心が無くなり、社会に関心が無くなり、世界に関心が無くなるんじゃないかと思うのだが、しかし、「今この瞬間この文章に向き合ってやれるのがこの世界で自分たった一人だ」という事実を突きつけられると、自分の書いたどうしようもない文章に向き合ってやらないといけないという気がしてしまう。

2014年4月18日金曜日

MHFの感想を書いているつもりがヴォルガノスへの賞賛になった話

 そう言えばまだワンコインでPS3版のMHFのハンターライフコースを一か月間満喫する権利を持っていたなということを思い出したので、今更HR1から(ゴゴククボの半ケツ姿にうんざりしながら)MHFをやった。結局なんかどうでもいいサーバー統合プロジェクトのせいで「セーブデータが残らない」とか言われて最近できなくなったのだが・・・。
 その結果、改めてMHFに登場するモンスターの最高傑作はヴォルガノスだということを思い知らされた。MHP2Gにヒプノックなどと出張してきた際に既に何度も戦っているのだが、それでも改めてこいつが他のモンスター達とは一線を画す強さを持っていることを思い知らされた。
 ヴォルガノスは、簡潔に言えばめちゃくちゃ強くなったコイキングである。溶岩の中を泳いでなんか飛ばしてきたり、口から溶岩を吐き出したりするのだが、そんなのは全く脅威ではない。こいつの真の強さは、極限まで強化された「はねる」と、「たいあたり」にある。ただ跳ねてただ体当たりするだけである。これが異様な強さなのだ。文字通りのこの2つの単純な動きのみで数々のハンターの命を奪っているし、絶望させていると思う。正直古龍よりも強い。いつも通り太刀を使っていると本当にただ跳ねているだけのこいつに殺意を覚えざるを得ない。狂竜化も激昂状態も超帯電状態も必要ないのだ。「はねる」と「たいあたり」を極めることで、こいつはここまで強くなったのである。
 是非MH4Gのパッケージモンスターはヴォルガノスにして頂きたい。できれば狂竜化したゴア・マガラや超帯電状態になったジンオウガやら無駄なことをしている連中を跳ねるだけで一蹴している感じで。

2014年4月16日水曜日

一か月ぐらい前に大阪に行った話

 
新世界の様子

 もう一か月ぐらい前に、論文などで死にそうな時に彼女と大阪に行っていた。目的は2つで、1つはいつか行った時に食べられなかった串カツを食べること。もう1つは天王寺動物園に行くことである。もう「動物園好き」と形容して良いくらい各地の動物園に訪れていると思う。今回は大阪である。

2015年に天王寺動物園は100周年を迎えるらしい。
天王寺動物園はものすごく町の中にあるのに結構大きい動物園である。植物園と近接している。ニューヨークのアメリカ自然史博物館の感想を書いた時に言及していたことであるが、あの博物館もこんな感じに都会のど真ん中にちゃんと動いている動物を配置して欲しい。まあセントラルパークにも動物園があるらしいのだが。やっぱり動物は動いていないとダメ。

(見えにくいが)このカバのケツの方にある青いやつがカバの糞を食す共生関係にある魚。モンハンで言うと折れた角を治すために岩を食べるクシャルダオラぐらいレアな光景。ちなみに(全く関係ない話をするが)MH4では残念なことに省かれたが、クシャルダオラは初登場時から水を飲む姿を見せるなど、古龍の中でも動物的な動きを見せる。

  天王寺動物園で印象に残ったのは動物園全体の方向性として、生物が共生している姿を描こうとしていたことである。特に写真のカバについては印象に残ったし、他の動物園ではなかなか配慮されていない展示の方法が採用されていた。写真では見えないが、このカバの展示スペースは下が水槽みたいになっていて、カバと共生関係にある魚を観察することができる。

これも鳥類の共生を表した展示方法。

ペンギン4匹組。ペンギンとしてはありがちな種だがこいつらは動きが大体シンクロしていたので印象に残った。

 ただやたら自然保護を訴える(大体人間が悪いというパターン)看板やら掲示やらが園内に配置されていたのが目につくので、そういう教科書じみた主張にうんざりしている人はうんざりさせられると思う。

2014年4月14日月曜日

フラニーとズーイ 感想

 またもう読んだことのあるJ.D.サリンジャーの「フラニーとズーイ」を衝動的に買ってしまった。村上春樹による新訳だというのは抜きにしても、実家に置いておいたもう捨てられたであろうサリンジャーの本が売られているという事実が目に入ると、俺は買ってしまうのだ。サリンジャーについては以前紹介したし、この「フラニーとズーイ(多くの場合は村上春樹が指摘している通り「ゾーイー」と呼ばれる)もその際に登場したが、俺は特にズーイの方の話が好きである。
 いつも通り一応あらすじを記述することに特に意味が無いこの物語のあらすじを紹介しておこう。「フラニーとズーイ」はシーモアを長男とするグラース家の他の兄弟である「フラニー」と、「ズーイ」を主要な登場人物とする話である。ここで「以上」とか書いて終わりにしてしまってもよいくらいタイトルから中身までその通りである。特段言及しておくべきは、「フラニー」と「ズーイ」は他のシーモアやバディーと言った「サヴァンじみた連中」でもなく、ブーブーのような「(割と)ちゃんとした大人」でもなく、一家の中でも珍しい役者としての才能を持った人々である。当然グラース家の人間なので何もしていなくても知識の獲得と思索を重ねてしまうが。「フラニー」はフラニー(女の子である。女子大生)とそのフラニーとは何もかもがすれ違った彼氏の会話の話。「ズーイ」の方は「叡知へと至らない知識」に溢れている大学と世の中にうんざりしてまいってしまったフラニーをズーイが慰める話である。
 この本に関しては、「ライ麦畑でつかまえて」の感想の際に匂わせたように、(ものすごく最後の方に登場するのだが)「太ったおばさん」の話が一番好きだし、何より重要だと俺は思う。フラニーが抱えていた悩みとは「叡知へと至らない知識」で満足して(中身が何もない知識を持ったまま)卒業していく大学の大学生、タッパー教授、彼氏、ルームメイトと、彼らに投影している聖書の中の自身の宗教的理想とは異なるキリストの姿の存在である。「宗教的」と言うと何か色が付いていそうで気持ち悪いかもしれないが、まあ平たく言えば「馬鹿ばっかりの世の中に辟易している女の子」がフラニーと言って良い。このような考えは誰しもが抱くだろうし、多くの場合は悩みにはならずに「落胆」程度で終わるのだが、彼女の場合はこの意味での「馬鹿」に聖書の中のキリストの姿を投影していたので、「悩み」になった。
 このような彼女の悩みを解決する方法としてズーイが呈示したのは、「太ったおばさん」を尊重するということである。「太ったおばさん」じゃない人間など(キリストを含めて)一人もいない。見世物にされている自分達をビールを飲みながらにやにや眺めている「太ったおばさん」、演劇の持つ芸術性など理解できる可能性も有していないのに真面目ぶった顔で劇を眺めている「太ったおばさん」、彼らのためにシーモアは靴をみがき、見世物を見世物として見せるべきだと述べた。
 「プロ意識」とは種類が違う。「愛」も対象が存在しないのでこの場合は妥当な解釈ではないだろう。別にシーモアもズーイも「太ったおばさん」を愛しているわけではないし、彼らのために見世物を見世物としている自分達を愛しているわけでもない。愛には対象が必要である。
 それではこれは何なのか、というと、「尊重」という言葉が適切だと思う。これはサリンジャーのものの見方が表れている部分で、「ナイン・ストーリーズ」の「テディ」の内容とも通ずるものがあるのだが、大切なことは、事実として存在する事実を事実として尊重し、行動することであり、それが人間が生きることだと、作者は考えていると思う。見世物を見ている者がキリストであれ「太ったおばさん」であれ、事実としてその場には見世物を提供する者とされる者が存在しているに過ぎない。大学にはただ知識を持っていることに満足している「太ったおばさん」ばかりだし、教授連中はそのような「太ったおばさん」を再生産し続けて社会に放出し続けていることに何の疑念も抱いていないし、付き合っている男もまさにそのような「太ったおばさん」みたいな奴だし、どうにもならないのだ。
 しかしながら、それが人間であり、人間が作る世界なので、(自分自身も例外なく「太ったおばさん」である)人間が生きていくということは、その事実を尊重することに他ならないということである。「太ったおばさん」のために、やっていくのである。

2014年4月1日火曜日

「人間性を捧げよ」→「絶望を焚べよ」

 俺の中の3月31日に関する出来事が全て終了したので、やっと俺が博士号を取得したという事実と、俺が人間性を捧げまくって別の論文も並行して書いたという事実と、そして俺が28歳になったという事実を実感することができるようになった。
 俺はもう名前にDrを付けたり(Ph.D.)にしたりできるようになったらしい。既にこのブログで述べた通り、NYUを卒業した辺りからもう俺は学校で得るものがなくなったとか思い始めていたので、まあ今更という話である・・・とか思っていたのだが、普通に大変だった。どこでも良いので博士号を取ろうとしたら分かる。そうすれば冒頭20ページをコピペした人間がいかにダメかも分かる。
 博士号に加えて、YPPを受けたり別の論文を書いたりいつも通り亡者状態でのたうち回る日常が半年近く続いたので、流石にくたびれた。毎年思っているのだが、今年こそは1つのことに集中できるように過ごしたい。