2013年6月17日月曜日

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 感想

 村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を2週間ぐらい前に読んでいたので感想を書こうと思う。何気に「ツイッター」や「フェイスブック」といった用語が村上春樹の作品の中でまともに登場するのは、初めてかもしれない。そしてこのブログでまともに彼の作品を取り上げるのも初めてかもしれない。
 村上春樹は、「風の歌を聴け」という本当にサイズ的に薄い本でデビューした作家である。持っているバックグラウンドは早稲田大学卒なので、多くの日本人にとって比較的まともに見えるかもしれないが、この作家はキングや西尾維新などと同じく学校教育にそれほど価値を見いだせなかった作家の方なので、(たぶん嫌々ながら)7年もかけて大学を卒業している。彼が異様に愛しているレイモンド・カーヴァーが小説作法を学ぶためにわざわざ学校へ通ったことと対照的である。
 個人的にこれまで彼のほとんどの作品を読んでいながら別に「ハルキスト」とかいうのではない人間の立場からすると、彼の作品(特に長編)では主人公が異様にかっこよく描かれるのが特徴だと思う。彼の描く主人公の特徴をまとめると、①クラシックに造詣が深い、②文学作品に造詣が深い、③映画にも造詣が深い、④さらにお酒にも造詣が深い、⑤さらにさらになぜか英会話もできる、⑥そしてさらに女に異様にモテまくって高確率で作中で性行為をする、という性質を持ったスーパー・コーディネーターである。つまり一見頭の良いTo LOVEるみたいなものである。
 例えば今回取り上げる「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を例に挙げれば、色彩を持たないはずの多崎つくる君は、疲れたら棚からカティサークを取り出して飲み、フィンランドへ行っても現地人と英語を用いて意思疎通を図ることができ、現実世界でも夢の世界でも女性と性行為に及ぶ男である。いやー、是非村上春樹さんには次の主人公は疲れたら棚からワンカップやいいともを取り出して競馬新聞を読みながら飲む派遣社員の男や、母親を殴ってカレーを買いに行かせるグルグル魔人にして欲しいと思わずにいられません。
 さて、いつも通り作品のあらすじを適当に書くと、高校時代に仲良し5人組の一角を担っていた色彩を持たない(はずの)多崎つくる君は、大学時代のある日に仲良し5人組から突如外されてしまい、ショックで死にそうになるがどうにかこうにか耐えて就職して30代のおっさんになって女と付き合っていた際に「駄目だわ。今のお前とはセックスできそうにないわ。お前の中の闇を克服して。」みたいなことを言われて仲良し5人組から外された理由を探す旅に出る・・・という話である。
 残念なことを1つ言わなければならないが、この作品の主人公は上記した通り例外なく村上春樹の描く主人公としての性質を持っているので、色彩はあります。彼より「色彩の無い」人間がそもそも掃いて捨てるほど存在していることが自明な世の中なので、「あくまで5人組の中では」という条件付きで初めて意味を持つタイトルである。したがって、本当に色彩のない人間がこの本を買って読んでも共感できる部分は特に無い。
 これと付随して一見キング的な「その描写はフェアか、リアルか、」という基準で問題になりそうなのは、5人組の1人であるフィンランド在住のクロが、多崎つくるを仲良し5人組から外した理由を多崎つくる本人にどうしても言えなかった、という部分である。最初にクロ本人が多崎つくるにこの話をしたページの描写だと、どうしてもこの部分がフェアでもリアルでもなくなってしまうと思う。なぜなら、上記した村上春樹の描く主人公は、例外なく物分かりが良すぎるからである。ちゃんと理由を話せば「うん、分かったよ」と言って納得する余地を持った主人公なのだ。だから、作者はその後のページでクロ本人が多崎つくるに片思いしていた、シロの様子が多崎つくるの想像より異様だった、という描写を帳尻を合わせるがごとく行うはめになったと思う。それらの特段の描写がなければ、多崎つくる以外の4人が多崎つくるに彼を外す原因を話さなかった理由を正当化できなかったと思う。
 最後にこの本の終わり方であるが、村上春樹の他の作品で言えば、「アフターダーク」的な終わり方なので、あの作品の結末部分が気に入らなかった人は読まない方が良い。もっともそれ以前の問題として、村上春樹の描く主人公が気に入らない、見ていて虫唾が走るという人は、多分作者は今後も同様の主人公を量産していくので、もう村上春樹の話題に関わらない方が良いかもしれない。そういう人は諦めて彼の短編を読むか、紀行文を読むしかないかと思う。

2013年6月7日金曜日

審判 感想

 「審判」は、フランツ・カフカの作品の中でも割合世間的には「変身」と同程度に認知されていると思う。今回は俺の彼女が意味不明と言っていた作品の感想である。
 まず、フランツ・カフカという特異な人物について語られる必要がある。ドイツの代表的な作家であるカフカは、保険外交員として生計を立てながら小説を書いた。カフカはヘミングウェイやフィッツジェラルドと違い、徴兵を免れているため、戦争が彼の作品の中で登場することは基本的には無い。あの時代にあって比較的恵まれた境遇にあったと言っても良いだろう。その割に早死にで、41歳で結核により死亡している。死亡に際して草稿等は全て燃やしてくれと言っていたのに、勝手に出版されてしまった。今回取り扱う「審判」も、そんな本来はゴーゴリが(全損まではいかなかったが)「死せる魂」でやったように燃やし尽くされてしまうはずだった作品である。
 「審判」の内容を簡単に説明すると、銀行に勤めるヨーゼフ・K(30歳)が、ある朝目が覚めると突然2人組みの男に自分が訴えられて、逮捕されていることを伝えられ、よく分からないがとにかく戦うしかないということで、法廷闘争を地道に繰り広げていく話である。地道に、と書いたように、法廷闘争そのものはそれ程全面的に描かれないので、読者は常にヨーゼフ・Kが、どこかで繰り広げられた法廷闘争の結果、疲弊しきっている姿を見ることになる。
 まあそもそも草稿の作品だったということもあり、この作品は俺の彼女が指摘したように一見意味が分からない。より厳密に言えば主題がどこにあるのか、読者は常に気を払って探し出す必要があると言って良い。終わり方まで突然でシュールである。
 実は俺はヨーゼフ・Kという主人公が好きである。俺がモンハンで使っている名前もこのブログで名乗っている名前もそこから取られたものである。KになったのはMHP2の時はまだカタカナが使えなかったので、ヨーゼフを表現しづらいということでKにしたのである。というわけで夏目漱石の「こころ」のKとは、モチーフ的には関連しているが、それ自体は俺個人の直接的なモチーフではない。カフカの作品が直接的なモチーフである。なぜか作者なりに思い入れがあるようで、同名の主人公が「城」などの他の長編でも登場する。
 俺がヨーゼフ・Kを好きな理由は、この男の実直さにある。この男、なんだかんだ言って忍耐力があるのである。「城」でも「審判」でもそうなのだが、この男はカミュ的な不条理にいつも巻き込まれて、迷宮のような裁判所や城、いつも2人組みで登場する道化野郎共、繰り返される繁文縟礼な手続、それらに疲弊しながらも粛々と立ち向かっていくのである。「もうやめた」とか言わずに付き合ってやるのである。この実直さが俺は好きなのだ。殺しても殺しても絶滅しない非実在害獣に立ち向かっていく不条理に付き合わされている主人公にぴったりである。
 物語自体について触れれば、「審判」は、日常の中にある非日常めいたものによって、人の人生が影響を受ける様を描いている。「非日常めいたもの」というのは、本作品で展開されるどこでやっているのかよく分からない法廷闘争であり、それは完全に夢や幻などではないのだが、やはり現実からは遠いのだ。手続、更には建物の構造や他者の性格そのものの複雑性が、現実からの乖離に拍車をかけている。それでいてその「非日常めいたもの」は人の生き死にを左右してしまうほどの決定的な力を持っているのである。「いやいや、おかしいだろ」と言って笑いながら突っ込みを入れてしまうような不条理さに、善良な小市民は殺されるのだ。その意味での皮肉めいた社会の軽さと重さが、よく描かれていると思う。

2013年6月3日月曜日

グレート・ギャツビー 感想

 読み直したいと言っていた「グレート・ギャツビー」を早速読んだ。俺としてはまともに自分で買って本を読んだのは(論文等を「確認」したのを除けば)実に数か月ぶりのことである。6年ぐらい前に買って読んだ本をもう1度買いなおして読むというのも不思議なものである。あと何度この作品を俺は死ぬまでに買いなおすのであろうか。
 いつも通り、まずスコット・フィッツジェラルドという不幸な男の話をしておかなければならない。まあ、まともな作家などは大体不幸なのだが。フィッツジェラルドはプリンストン大学を出て軍に入隊し、その後NYでコピーライターとして生計を立てながら小説を書いた。今回取り上げるグレート・ギャツビーは、彼の非凡な能力が注目を浴びていた、1925年に出版された作品である。この時期が彼の人生で最も輝いていたと言っても過言ではない。「移動祝祭日」という、ヘミングウェイの作品の文庫版としては新しい方に入る短編集でも言及されている通り、フィッツジェラルドの人生は貧困や妻の統合失調症などにより、苦行のようなものだった。偉業を残す人間は恵まれない境遇に生まれている、とか、世間では言われることがあるのだが、そんなことは他人事かつただの消費者だから言えるだけである。
 さて、その苦行の連続であった男が人生の絶頂期に書いた作品が「グレート・ギャツビー」である。いつもの簡略あらすじを書いておくと、イェール大学卒の主人公ニックは、証券会社で働くためにニューヨークへ出てくるのだが、そこで隣の家で毎晩のようにパーティーを開いているジェイ・ギャツビーと出会い、彼との交流を通じて、既にトム・ブキャナンと結婚しているデイジーという女性へのギャツビーの思いを知る・・・という話である。
 「グレート・ギャツビー」は一見名前からして華やかそうな話であるが、悲劇である。FFタクティクスの感想を書いた時と似たような感想だが、この作品も例外なく「持たざる者」ギャツビーのための出口などどこにも用意していない。自分の全てを偽物で塗り固めて二度と取り戻せない高尚な理想を追い求めるギャツビーも、自分の本物の成功者の地位を利用して低俗な現実を維持するブキャナンも、破局へ突き進んでいく。
 上記した簡略あらすじだと、一見ギャツビーの恋物語のように見えるが、それは違う。この物語でギャツビーが追いかけていたのは、過去に交際した良家(で例外なく浅薄)のデイジーという女性ではなく、彼女に投影している二度とやり直せない自らの過去という理想である。ギャツビーは、デイジーを手に入れることで、彼女に現在の夫のブキャナンを「愛したことはなかった」と言わせることで、自分が理想としてきた自分の人生が再構成されると思い込んでいるのだ。単純に自らの快楽のために愛人を囲っているブキャナンとは対照的である。悪い言い方をすればブキャナンは「大人」で現実しか見ていないが、ギャツビーは「子供」で、理想しか見ていない。
 しかし、この一見愚かな行いは、単に愚かだと否定されるべきものではないだろう。作者が語り部たる主人公を通じてギャツビーを褒め称えたように、嘘で塗り固められたこのギャツビーという男の自らの成功への理想へかける一途さは本物で、高尚だったからである。愚かさと偉大さは両立できるのだ。