2013年5月31日金曜日

ライ麦畑でつかまえて 感想

 ヘミングウェイの作品に触れた辺りから、本当はフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の感想を(思い出して)書こうかと思ったのだが、不思議とまた読み直したくなったので、今回はJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の感想である。
 J.D.サリンジャーは、20世紀のアメリカ文学を語る上で欠かせない作家の1人であることは間違いない。その特徴は何と言っても厭世的な態度と数本の(しかしあまりにも卓越した)名作であり、2010年に死ぬまでにほとんどの作品を書かなかった(リンク先で言われているように計画はあった)にも関わらず、数本の代表作で世界中の読者の心を掴んだ稀有な作家である。まさに作家の中の作家である。
 今回取り上げる「ライ麦畑でつかまえて」は、放校処分を受けたどうしようもない落ちこぼれである我らがホールデン君が、3日間いろいろな人に会ってうんざりしながら、自分の将来についてなんとなく考える話である。ナルトどころじゃない落ちこぼれっぷりなので、是非「俺は落ちこぼれだ」とか勝手に言っている連中に読んでもらいたい。一見ホールデン君は終わっているから。しかし、彼は最終的に「広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」を目指して新たな人生へと旅立つのだ。
 実は個人的にはサリンジャーの最高傑作というか、この作者の全てが込められたと言っても過言ではない作品は「バナナフィッシュにうってつけの日」だと思っているので、「ライ麦畑で捕まえて」よりも気に入っているのだが、この作品も俺の大好きな作品である。サリンジャーの作品で疑いの無い代表作ということもあり、俺が最初に出会った作品もこれだった。
 俺が「ライ麦畑でつかまえて」で好きな場面は、終盤に彼の元恩師の先生と会話する場面である。先生の「学校という場所は自分の頭のサイズを知る場所だ。そのサイズが大きい人も居れば、小さい人も居る」という趣旨の話の後、ホールデン君はこの恩師を「ホモ野郎じゃないか」という疑いを抱いて去っていく場面である。この描写を俺は非常に気に入っている。なぜなら、この意味での「冷めた賢さ」を持つ若者の姿こそ、サリンジャーという作者があらゆる作品を通じて見出しているものだと思うからだ。
 例えばホールデン君と対極に位置するように見えるグラース家の長男シーモアも、その原案となったナイン・ストーリーズの天才少年テディも、この誰にも止められない「冷めた賢さ」の持ち主である。これは冷え切っていて、誰にも止められるものではないのだ。ホールデン君が自分で「広いライ麦畑で遊んでいる子供たちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」になろうとしたように、自分で止めるしかない。止められなければシーモアのように自殺してしまうかもしれない。
 しかし、作者はこのどうにもならない冷たさを、自問自答で解決できるものだと位置づけていない。結局自分以外のものとうんざりしながら、誰にも止められるものではないと分かっていながら、もう話したくないと思いながら、「ホモ野郎」と思いながら、暖めていかなければならない冷たさだと位置づけていると思う。ホールデン君が3日という時間を使っていろいろな「どうでもいい連中」に会うという、一見無駄なプロセスを踏んだのもそのせいである。これは、「フラニーとゾーイー」でゾーイーがフラニーを説得した際に言った「それでも太っちょのオバサマのために」という言葉で示されている。この話をした張本人であるシーモアが自殺してしまったように、どうにもならないことはあるかもしれないが、それでもろくでもない世界と関わっていかざるを得ないのだ。その上で自分で決めるしかないのだ。「太っちょのオバサマのために、彼女のためだけに」やっていくのである。それがおそらく生きていくことだと、作者は考えていると思う。

2013年5月28日火曜日

居酒屋 感想

 エミール・ゾラの作品の中で最も入手しやすいものは「居酒屋」であることには疑いがない。「居酒屋」は、彼のライフ・ワークである「ルーゴン・マッカール叢書」全20巻の内の第7巻であり、同シリーズの中では最も社会的に大きな影響を与えた作品であるため、優先的に文庫化されて販売されているのだろう。俺はルーゴン・マッカール叢書全作品を死ぬまでに全て読むことをまだ諦めていないのだが、他の作品は出版社が違ったり本のサイズが違ったりしている上、通常の書店では売られていないことの方が多いため、ここ5年ほどこの試みは滞っている。現在までに俺が読んでいるのは、第1巻「ルーゴン家の誕生」、第2巻「獲物の分け前」、第7巻「居酒屋」、第9巻「ナナ」、第12巻「生きる歓び」、第13巻「ジェルミナール」である。この内、第9巻「ナナ」もゾラの代表作の1つとして扱われているので、容易に入手可能である。
 さて、ゾラについて書くのはこのブログでは初めてなので、例に倣って作者自身について言及しておこう。フランスの代表的な作家の1人であるゾラは、出版社で働きながら作家をめざしたという背景を持っている。「ルーゴン・マッカール叢書」は、彼自身の「実験小説論」、すなわち、「ある環境に置かれた一定の遺伝的・生理的条件をもつ人間の変化反応を描く〈実験としての小説〉を提唱する理論」に基づいて書かれたシリーズである。簡単に「ルーゴン・マッカール叢書」に当てはめて言えば、ルーゴン家の血を引き継ぐ者のそれぞれの人生が描かれている。したがって、それぞれの巻で描かれている世界観は連続しており、かなり展開が分散した大河小説と思って読めばとっつきやすい。手法としてはバルザックの「人間喜劇」を基にしており、漫画でいえば「ジョジョの奇妙な冒険」、ゲームで言えば「サガ・フロンティア2」が好きならゾラのことも好きになるだろう。基本的に多くの作家が心のどこかで追求している自分の文学作品の世界の構築を、意識的に実践した作家である。
 「居酒屋」は、本シリーズの第7巻に当たる。いつも通り簡易あらすじを書くと、ルーゴン家の血筋であるジェルヴェーズは、洗濯女として一定の成功を収めるものの、煙突掃除を生業にしていた再婚相手が調子に乗っ・・・業務上のミスにより高所より転落してしまい、仕事ができなくなって酒浸りになり、DV、アルコール依存、貧乏、売春未遂、孤独等が「順当に」ジェルヴェーズの人生に殺人コンボを叩き込んでいく・・・という話である。
 本作品が社会的反響を呼んだ理由は、この本自体のテーマ設定と言うよりは、ここで言う「殺人コンボ」の描き方が詳細に渡っていて、当時問題にされていた貧困層の現実を鮮明に描写したからだと思う。この類の不幸の描写は、現在でこそ使い古されたものなので現代の人間から見れば「順当」なのだが、当時は読者の目に刺激的に映ったのだろう。(大分)醜悪な言い方になるが、ハンニバル・レクター博士が拷問器具の展示を好奇の目で鑑賞する客を軽蔑しながら「慈愛を持って」分析していたように、この類の描写は読者の「好奇の目」を惹きつける手段としては効果的なのだ。小論文や入社試験で「自身の経験に基づいて記述しなさい」という課題があり、自分の不幸話をもっともらしく書こうという人は、採点官の極めて人間的な「好奇の目」を惹きつけるために、「居酒屋」を読んでおくと、不幸を描く手段の勉強になるかもしれない。
 この本で俺が好きな場面は、上記した「殺人コンボ」の内最も醜悪と言って良い場面の、主人公ジェルヴェーズが貧困のあまり、売春のために通りすがりの男に声をかけに行くところである。この場面は、本書における彼女の盛衰を決定づける場面であり、洗濯女として成功した者が、自分の社会での失敗を自分で享受した印象的な場面である。しかも自分を捨てて声をかけた男にジェルヴェーズは無視されてしまい、社会での自分の価値が完全に否定されてしまう。最終的に作者がジェルヴェーズに与えるものは孤独死であり、彼女を徹底的に堕落させるのだ。
 この描写の一徹さは、作家として称賛されるべきだろう。文学作品の執筆には学問のような「価値自由」は求められていないし、作家が自分自身を投影しない作品は逆に面白くないという評価が下されているが、ゾラは、執筆の際に打ち立てた「実験小説論」という自身の規範を、自身の価値観よりも優先させて、この作品を描いていると思う。

2013年5月24日金曜日

海流のなかの島々 感想

 そう言えば彼女に「ブログは3日に1回ぐらいのペースで更新して欲しい」とか言われていたので、じゃあ今まで俺が読んできた本でも思い出しながら感想でも書くことにする。ぱっと思いついた本は今回はヘミングウェイの「海流のなかの島々」である。
 「海流のなかの島々」は、リンク先で書かれている通り、彼の最晩年の作品の1つである。死んだ後に彼の妻によって発見されて勝手に出版された類の本なので、その意味ではそもそも作品はすべて捨ててくれと言っていたのに勝手に出版されたカフカと同様、出版するつもりで作者が書いたのかも不明である。ヘミングウェイの作品の中では名高い「老人と海」と情景描写が非常に近いものがある。「海流のなかの島々」の第4章が「老人と海」らしい。
 いつも通り超適当あらすじを書いておくと、本作は3章から成り立っており、第1章「ビミヒ」、第2章「キューバ」、第3章「洋上」という、連続しているようで連続しているのかどうかは不明な世界線上で、トマス・ハドソンという男の人生を描いた作品である。ここで言う「連続しているようで連続しているのかどうかは不明な世界線」は、各章ごとに場面の跳躍があるために生ずる現象で、ヘミングウェイのファンなら彼の素晴らしい短編である「ニック・アダムズもの」を読んでいるつもりで読むとまあ納得はできる。共通しているのはどれも海と男が登場する物語であり、ヘミングウェイの作品なので、当然この男、彼が自分を投影したトマス・ハドソンは幸福ではない。ヘミングウェイの卓越した「切り詰められた文体」で、一人の男の人生が描かれている。
 俺はこれまで読んだ本の作者の中で、トーマス・マンと並び、アーネスト・ヘミングウェイはかなり優れた技術の持ち主の1人だと思っているので、そこらへんの話はいつか適当な時に「誰がために鐘は鳴る」の感想を書いた際にでも書くことにする。ここでは、俺が「海流のなかの島々」で一番好きな場面について書く。
 俺が一番好きな場面は、中盤から後半ぐらいで、主人公があるバーに入って「フローズン・ダイキリ砂糖抜き」をがばがば飲みまくるところである(隣のオカマ野郎はハイボールを飲む)。なぜこの場面が好きかと言うと、俺が大学生の時に酒を飲むきっかけとなったからである。今でも多少はそうなのだが、俺は酒を飲むという行為に、20歳になって以後もかなりの期間全く関心が持てなかった。しかし別にこれは酒に限ったことではなく、俺はお菓子やらアイスやら、3食必要な量以外の食事を摂るという行為や、必要な睡眠時間以外に設ける昼寝の時間など、それらの必要外の行為を文字通り必要外として見做す謎の禁欲精神を持っていたので、酒もその例外ではなかったと言った方が良い。
 このような禁欲精神は、それぞれ禁欲の対象となっている事物ごとに次第に失われていった。昼寝については彼女が昼寝ばかりする困った人種だったせいであったのだが、酒については、間違いなくこの「海流のなかの島々」を読んだせいである。とにかくこの主人公がなぜ沢山ダイキリを飲むのかが気になってしまい、酒店で当時は多く売られていたカクテル・パートナーのダイキリばかり買って飲むようになった。酒はイメージで飲むものだと思う。俺の場合は「海流のなかの島々」が自分の中に酒のイメージを作ったのだ。別に味が良いとかどうかは全く分からないのだが、ダイキリが好きになった。その結果、次第にじゃあビールを飲んでも良いかもしれない、他のカクテルも良いかもしれない、ということになり、「事後的」に酒の美味しさが分かるようになったのである。
 というわけで俺が酒を飲むようになったのはヘミングウェイのせいである。飲酒運転等で逮捕されたり、「原因において自由な行為」として酒の力を借りて犯罪行為に及んだ場合は、是非「ヘミングウェイのせいです」などと供述しようと思う。

2013年5月8日水曜日

動物園に行った(※GW中ではありません)感想とバク祭り

大の字で寝るメガネザル。
日本をはじめとする先進国では、長期休暇中にちゃんと遊んでないと、「ワークライフバランスが取れていない」→「勤労が強いられることによって人間性が歪められ、人間は不幸な生活を送っている」→「勤労は害悪である」とか言われがちなので、「じゃあ日常的に遊べばいいだろ!小学生時代の4時間目で授業終了した日の14時付近の間延びした時間を思い出せ!」キャンペーンを展開すべく、別にGW中に行ったわけでもない平日に彼女と行った動物園の感想を書くことにする。このタイミングで書く理由も、寵愛する我らがソニーのサイバーショットの特異なUSBケーブル(ヤマダ電機等で聞いてもなぜか存在せず、ほぼ確実に取り寄せになってしまう素晴らしいアイテムである)をすぐに紛失してしまうせいである。ソニーのせいである。モンハンがPS3とVITAで出ないのはソニーのせいである。

ライオンと違って「勤勉」なトラ。

 このブログで何度か書いたように、俺は人間以外の動物に限っては非論理性を愛しているので、動物は意味不明な行動を取れば取るほど好きである。その点、バクは素晴らしい。最後まで馬鹿たっぷりだもんな。ということでこの記事はバク祭りにすることにした。

バク(マレーバク)。成長しても二足歩行になり五円玉を糸で吊って子どもを誘拐したりしない

 
バク近影。この背中の丸みが至高なのである。

バクの尻。水場に浮いている黒いやつは俺の彼女の説だとこいつらのうんこである。

バクの親子か夫婦か兄弟か他人同士か。バクの難点は見た目で大人か子どもか分かりにくい点である。

 バクは一族一系統で、マーズランキング2位の一族一種の雷撃生物を思い出させる進化を遂げた生物らしい。しかし残念ながら現実のバクは別に夢を食べる能力は持っていないから火星のゴキブリ達にはすぐに蹂躙されてしまうだろうし、「ゆめのけむり」も出さないだろうから、「やめたげてよお!」と言われるまで蹴られ続けることも無い。本当に平和な生物である。