2013年1月25日金曜日

本を読まなくなる日常

 俺は本を読んでいない。日常が他のことで忙しくなると、数ある娯楽の中から俺は読書を捨てる選択をしているらしい。まあ仕事とか論文とか生活とかうんざりした時に本を読むのと、モンスターを殺しまくるのでは後者の方が自分自身に快感が届くスピードは速いと思うので、「手軽」という理由で俺は読書を捨ててモンハンを取っているらしい。
 論文を書いているくせに本を読まないというのは矛盾している、というのはまともな論文を書いたことのない人の意見であることに疑いが無い。一見不思議な話をするが、学問というのは熟達すればするほど本を読まなくなる作業になる。全く文章を読まないという意味ではなく、一冊の本の理解にかける時間が少なくなる、あるいは本の全容を理解しないまま、書いている論文の中で「引用」という形で理解をしている体を装うのである。「読む」というより「確認」に近く、論文を書いている時に「読む」のは純粋に作業である。
 この作業についてより正確な言葉で言い換えれば、学問をしている時、俺たちは文章の取捨選択を素早く繰り返し行っているということになるだろう。少なくとも寝る前に本を読む時よりは早く行っているし、不思議な話で、慣れると初見の本だろうと、どの言語で書かれた本だろうと、文章の取捨選択ができるようになる。つまり自分の中で取捨選択をする際の基準がより強固になり、記憶や印象にとどめる前に、文章を「読む」前に、「見た」段階で意識から捨象する作業を連続して行っているのだ。
 このような国語のワークブックで登場しそうな文章を俺が書くのも全て「本を読まなくなる日常」のせいだと俺は思う。思い出せば、俺が高校生の時に解いていた評論系の国語のワークブックの問題は「人間が無意識的に行っている事のパラフレーズ」に満ちていた。おそらく書いていた人間も俺と同様にそれほど健康的ではない日常を送っていたのだろうと思う。
 この事に批判的に言及している以上、俺の「無意識」は「本を読まなくなる日常」から抜け出ることを望んでいると思うので、俺はまず彼女から借りたままになっている司馬遼太郎の「国盗り物語」を読むことにする。

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