2013年12月4日水曜日

今年の大会も終了の件

 今年のYPPが終わった・・・。まあ暫くはよく分からん世界大会の2次予選が年末にあると思って毎年生きるしかない。とにかく上半期に厄介なことは終わらせて、下半期に集中できる時間を確保する生き方をしないとちょっとどうにもなりそうにない。もう少し、「年末の夜中に5時間ぐらい拘束されるテストがある」ということに、年始から追い詰められるような実感を持って生活を送る必要がある。
 とりあえず今年の収穫は、俺の作戦変更が結果的に妥当で、50問のマークシートは専門科目の内容を問うものに変更され、General Paperの内容が英文要約だけになったことが分かった、という点だった。去年のGeneral Paper用の問題とは明らかに性質が違う。来年度のYPPがこの形式を踏襲するとすれば、出場選手はよりSpecialized Paperの対策に時間を費やす必要があるだろう。まあ「やっぱりまた戻します」とか来年の11月とかに公言されても困るのだが・・・。
 あと他に収穫があるとすれば、俺たちはミツバチ達を敬わなければならないということが分かった点である。

2013年11月23日土曜日

作戦変更が(多分)必要な件

 そう言えば今年の招待状を見るとGeneral Paperの方は要約だけで、Specialized Paperの方に50問の多肢式問題になってるような書き方がされてるように見える・・・。にも関わらず国連広報センター(UNIC)のYPP情報だと、


Q:筆記試験はどのような内容ですか。

A:筆記試験は2部構成となっています。
  • 一般筆記:全職種共通で、あなたの国際問題に関する知識と文書作成能力を問うものです。問題は消去法で、英語またはフランス語で受験できます。
  • 専門筆記:あなたの希望職種に関する実質的な知識と分析的思考を問うものです。国連公用語6カ国語のいずれかで受験できます。
 とか書かれてて、去年行われた試験形式のままである。YPPのページの文章だと、

Q: What is the structure of the written examination?
A:
The written examination consists of two papers:
  • The General Paper, which is the same for all job families, tests your drafting abilities and/or your knowledge of international affairs; this part can be drafted in either English or French.
  • The Specialized Paper, which tests your substantive knowledge corresponding to the job family you are taking the exam in and your analytical thinking; it can be taken in any of the six UN official languages.
という感じで、"knowledge of international affairs"に関する問題が問われる可能性を示唆している。
 しかし、実際に届いた招待状だと、

Exam Format/Content:
As advertised, the examination in each job family will consist of a General Paper and a
Specialized Paper. The General Paper is the same for all job families and applicants will be asked to summarize a text. The Specialized Paper varies by job family, and consists of the
following:
Finance: 50 multiple choice questions, 3 mandatory essays, and 6 short questions;
Administration: 50 multiple choice questions, 2 mandatory essays, and 10 out of 12 short
questions;
Public Information: 50 multiple choice questions, 2 mandatory essays, and 5 short questions
Statistics: 50 multiple choice questions, 1 mandatory essay, and 8 short questions,
Legal: 50 multiple choice questions and 3 out of 6 essays.

と書かれていて、General Paperの方はサマリー問題だけとも解釈可能な記述がされている。

そしてついにYPPの公式ページでも明確に

The General Paper 

* is the same for all job families, and 
* applicants will be asked to summarize a text. 
* Maximum score for General paper (summary): 150 points 


The Specialized Paper 

* is different for each job family in both substance and format. 
* All Specialized Papers include 50 multiple choice questions which will serve as first eliminatory portion. 
* In case of a large number of candidates, certain parts of the Specialized Papers other than the multiple choice questions may also be eliminatory.



 と記述され、マークシート方式のテストはGeneral Paperではなく、Specialized Paperの方でやることになった(らしい)と言及された。昨年度に比べてこれは大きな変更と言って良いと思う。つまり、俺が去年のPolitical Affairsの試験後の感想で書いたような国連組織の一般的な理解よりは、今年のテストでは各専門分野の知識を問われる問題として、マークシート方式のテストが使われる可能性があるということだ。
 毎年YPP試験の形式は変更されているようなので、実際12月3日に受験してみないと分からないが、個人的にはこれは受験者にとって対策しやすくなった変更だと思う。試験当日に去年と同じでGeneral Paperに課されていたマークシート問題がそのままSpecialized Paperの方に移されただけ、ということになると困るのだが・・・。まあ、何より3か月ぐらい前に言って欲しかったわけであるが。各国40位以内の猛者ならこの変化ぐらい対応してみせろということなのだろうか。

2013年11月7日木曜日

MH4地雷縛り用テンプレ

 MH4の感想の最後で、期待されたオンラインプレイがどうしようもない連中の巣窟になっていて、我々通常のプレイスタイルを有している立場からは不快感が募らない日が無い方が珍しい状態になっていることは言及した。今日はMH4オンラインプレイの「地雷縛り用テンプレ」なる行動様式をまとめたので記載しておく。地雷縛りでMH4をプレイしたい場合は下記を参照。
  1. ハンターの名前はできるだけ、「ゆうた」、「ゆうと」、「キリト」、「エレン」、「ひろと」に設定すること。これらの名前にしたくない場合はファーストネームをひらがなで入力。他の名前の使用は許されない
  2. 武器は「エイム of トリック」か改造ギルクエで入手した「輝剣」を使用すること。「エイム of トリック」の強化は「エイム of イリューズ」までしか認められず、「輝剣」を使用する場合は、たとえ生産武器の方が優れていたとしても「輝剣」を使用すること。
  3. 装備はゴア一式、ゴルルナ一式、チートで手に入れたミラバル一式、チートで手に入れたスキル不発動の無意味な混合装備から選択すること。他の装備は許されない。特にチートで手に入れたスキル不発動のクソ混合装備は地雷ポイントが高く、評価できる。
  4. 旅団クエストを進めることは許されない
  5. オンラインでは必ず他人の集会所に入り、無言でクエストを貼ること。既にホストがクエストを貼っていたとしても無視して貼ること。
  6. 他の人が何か苦言を呈してきたら、「てつだって」、「いこ」、「はやく」のいずれかの言葉をテキストチャットを通じて発すること。「ハチミツください」は使い古されており、地雷プレイをしていることがばれてしまうため注意。現在ではむしろ「改造ギルクエください」、「ギルクエください」の方が地雷ポイントが高く、評価できる。これら以外の発言は許されない
  7. クエストが始まったらベースキャンプで待機するか、延々採取のみを行うこと。無理してモンスターを狩りたい場合は、操虫棍の場合は跳躍からの乗り攻撃ばかりを狙うこと。大剣の場合は振り回しと切り上げのみを使用すること。他の行動は一切許されない。また、必ず乗り攻撃は失敗すること。
  8. 死亡してしまった場合はベースキャンプで放置。放置したくない場合は無言で切断すること。やる気を見せることは許されない
  9. 他のプレイヤーがモンスターを討伐したら全速力で剥ぎ取りへ向かうこと。他のプレイヤーに妨害されても無言で剥ぎ取り続けること。
  10. クエスト終了後は上記5に戻りまた無言でクエストを貼ること。他の人が苦言を呈して退出したら自分も退出して新しい寄生先を探し、上記5に戻ること。
 実に体感では4割以上の人々がこのような縛りプレイをしているので驚く限りである。是非このような厳しい縛りを付けてプレイしている素晴らしいハンターの方々には、我々のような愚昧の徒の与り知らない場所で更なる高みへ飛躍して頂きたいので、このような卓越した人格を持つ方々に、我々のような無知蒙昧の輩が使用している集会所から退席して頂くシステムを、カプコンに至急開発して頂きたいと願うばかりである。

2013年11月1日金曜日

2013年国連YPPのLegal Affairs 用推薦図書に関する雑感

今年のLegal Affairs用の推薦図書(というか実際には図書じゃなくて国際法条文そのもの)に関する(8番目以外の)雑感が下記。

1.The Charter of the United Nations

高確率で持っている条約集の最初に入っていてなぜか日本のポケット六法にすら確実に入っている国連憲章。2条4項、2条7項、6章ちょっとと7章大部分(と純粋な法学的視点からはこれがないと国際秩序が始まらない103条)は覚えていて当然じゃないと困る。

2.The Convention on the Privileges and Immunities of the United Nations

国際法主体としての国連について規定した条約。国連の法人格と国連職員に与えられる特権免除に解する理解が必須。一般的に「国際機構」単独で講義を構成しない場合は教育機関だと「国際法の主体としての国際機関」の時間に教える。問題の作り手としてはケーススタディで絡めやすく、実際配布されているYPPの過去問でも(多分試験作成者がにやにやしながら)その手の事例を作っているので、国連損害賠償事件、国連経費事件についてのICJの勧告的意見は読んどくべき。

3.The Universal Declaration of Human Rights

いわゆるUDHR。「国際人権法」という講義があったら担当教官は高確率でICCPRやICESRの前に部分的でも触れる国連総会で採択された宣言。ここに示されている内容を100%守っている夢のような国は世界中どこにも存在しないことは自明だが、それでも国際人権法の(象徴的な意味も含めて)最上位の法源には違いが無いので、国際人権法上の問題に関して論文を書く場合は法源っぽく言及するのが常套手段。

4.The Geneva Convention of 1949

いわゆる「ジュネーブ諸条約」でこっちは「国際人道法」の最上位の法源の1つ。国際人道法兄弟のもう一方の片割れである「ハーグ陸戦条約(ハーグ法)」が戦争の「方法」を規律することを重視するのに対し、こっちのジュネーブ法は戦争の「対象」を規律することを重視する。特に現代的な文脈では「戦時」と「平時」、「戦闘員」と「非戦闘員」の境界が曖昧になっていることもあり、4つ目の文民の保護に対する条約が大切。ロースクールだと教員は「戦闘員」と「非戦闘員」の現代的な区別に関する終わりのない議論で法の不確定性をアピールして無理して盛り上げようとする。

5.The 1982 United Nations Convention on the Law of the Sea

国際海洋法の最上位の法源。所謂「排他的経済水域」とか「領海」とかいう言葉の意味はこの条約を見ればわかる。日本は海洋国であることもありマニアがいっぱい居る。これも事例問題にしやすい。

6.The annual resolutions of the United Nations General Assembly on Oceans and the aw of the sea

上記の海洋法上の問題に関する国連総会決議(の数々)。今回のような試験でまともに相手にすると「実際は6問中1問しか出なくてしかも他の3つの方が簡単で選ばなかった・・・」という展開になるのが怖い。もっとも筆記試験の次の面接で面接官が国際海洋法マニアで「君は国際海洋法の問題は解かなかったが云々」みたいな展開になるともっと怖い。

7.The 1969 Vienna Convention on the Law of Treaties

いわゆる「ウィーン条約法条約」で、通りを歩いているおっさんおばさんは(国連憲章に比較して)まず知らないが何気に国連憲章と並ぶくらい国際法にとって大切かもしれない。特に「条約の留保」については、これに関する問題で世界中の国際法学者達が期末試験で学生達を苦しめようと舌なめずりしている。

2013年10月23日水曜日

「人間性を捧げよ」→「人間性を捧げよ」→「人間性を捧げよ」でもう俺は前しか見えない。

 結局今年の国連YPP試験(Legal Affairs)にも呼ばれたので、また1つ人間性を捧げることになり、もう俺は前しか見えない。

2013年10月16日水曜日

ビッグ・ドライバー 感想

 何かちょっと隙があるので本当はモンハンがしたいのだがスティーヴン・キングの「ビッグ・ドライバー」の感想を書くことにする。「ビッグ・ドライバー」は以前感想を書いた「1922」と日本語訳版では姉妹本になっている作品で、以前紹介したものと同様に「救いのない状況で救いを求めて行動する人々」を描く中編集である。
 「ビッグ・ドライバー」の方に収められている作品についていつも通り適当あらすじを書くと、まず表題作になっている「ビッグ・ドライバー」では、道に迷った女流作家がレイプされて屑としか形容のしようがない犯人に復讐する話が描かれている。次の「素晴らしき結婚生活」では実はシリアルキラーであることを隠して長年結婚生活を送っていた屑としか形容のしようがない夫の裏の顔を知った妻がその夫をぶっ殺す話である。つまりこの本には屑としか形容のしようがない人間を殺さざるを得ない心境に陥った他者が殺す話が2本収められている。「1922」と明確に違うのは「ビッグ・ドライバー」で殺される側の人間は「ローズ・マダー」の夫と同様、目の前にデスノートがあったら8割以上の人は名前を書くであろう存在だという点であろう。「1922」では他人面で立派な消費者らしく主人公たちの行動を糾弾できたかもしれない人々が、「ビッグ・ドライバー」では糾弾するのに困難を覚えるかもしれない。
 個別の作品の感想について、まず「ビッグ・ドライバー」の方は、キングの人間を描く能力が良く活かされた作品だと思う。舞城王太郎の作品に関する感想を以前書いた時には指摘しなかったのだが、舞城王太郎が本当に男だと仮定した場合に、スティーヴン・キングと共有し得る部分は、異性(女)を描写するのが上手いという点だと思う。舞城王太郎についてはこの点に関する俺と俺の彼女の見解は同じなのだが、キングに関してはこれまでそれほど女性を書くのが上手いという点は俺の中で意識されていなかった。しかし、今作で改めて俺は気づかされたのだが、このスティーヴン・キングというモダン・ホラーの巨匠(兼薬物中毒者)は、女性を描くのが上手い。女性を書く行為そのものが上手いのか、それとも人間を描く能力の延長線上に位置づけられるのかは明確ではないが、多分「ビッグ・ドライバー」の展開と女性の心理に共感する人々は多いのではないか、と思う。
 「ビッグ・ドライバー」も女性が主人公だが、実は「素晴らしき結婚生活」の方も女性が主人公である(だから余計「女を書くのが上手いな」と思ったのかもしれない)。年齢はこちらの方が上で、初老の夫婦の内、妻の方がシリアルキラーである夫の正体に気付き、彼を殺す。
 本作に収められている作品2点に共通し、かつかなり作品の本質的な部分に触れるような感想を書くと、人間にとって「正しさ」とはどのように決められるのか、それを考えさせる作品だったと思う。人間は経験したことしか理解はできても納得はできないので、どこまで行っても他人の「正しさ」を経験できない以上、他人事なのだ。他人だからこそレイプ犯への復讐や身内のシリアルキラーを殺すことは「犯罪」だと糾弾できるし、実際苦痛と不正を経験しなかった者が多数派だったという単純な事実によって、人間社会は人が人を殺すことを正当化しなくてよくなり、不正を不正で贖うことを間違っていると見せかけることに成功していると個人的には思う。
 しかし、このように社会で示されている「正しさ」に関する人間の対応が「真実」かどうかは、問われるべきだろう。あとがきでキングが珍しく真面目な話をしているのは、この意味での「真実」性を物語が放棄するべきではないという内容だと解釈できる。物語という手法は、嘘であるからこそ社会で示されている嘘を嘘と偽ってそのまま表現しなくても良いのだ。「ビッグ・ドライバー」で避妊もされずに殴られながらレイプされたテスの存在も嘘だし、「素晴らしき結婚生活」で殺人依存症に陥り他者を食い物にしているボブの存在も嘘なのだ。しかし、だからこそ物語は社会で正当化されている見せかけの正義に正当性を持たせて、個々の登場人物が抱く個別の「正しさ」という真実から逃げなくても良いのだ。現実世界では糾弾すべき行動であっても、その糾弾の根拠となる「正しさ」は、苦痛と不正を味わった個人の感情にとって本当の正しさではない。嘘である物語だからこそ、人間が抱く真の感情をそのまま伝えることができるのであり、そこから逃げた時、物語は価値を失うのだと思う。

MH4 感想 (終)

 もう既に集会所、村、訓練所全てクリアしてHRも120を超えたのだが、今作には「天地狩猟の覇紋」が存在しないという悲しい事実が判明した・・・。HR100集会所最後のクエストはちょっと攻撃が痛くなったダラ・アマデュラで、正直村最終の方がまだ最終クエストらしい感じだった。
 というわけで(天地狩猟の覇紋が無いのでぱっとしないが)MH4の感想もとりあえず今回で終わりである。MH4全体の評価についてはHR100までやっても俺については変わらなかった。途中1回謎のエラーが発生して3DSが強制終了して「もう今日は止めるわ・・・」となった以外は特段ゲームとしての不具合には遭遇しなかった、と思う。
 まあ実質G級の高レベルギルドクエストや異常な能力を持った発掘武器、運が要求される採集クエストや、行ってみたら地雷どころか歴代シリーズ屈指の馬鹿と無能と言わざるを得ない連中の巣窟となってしまったオンライン集会所の状況など、問題はあるにはあるのだが、どれも「絶対にどうにもならないシステム上の問題」というわけでもないので、ゲームそのものとしてはやはり歴代最高傑作のモンスターハンターだと思う。これらの問題の内、たぶん「行ってみたら地雷どころか歴代シリーズ屈指の馬鹿と無能と言わざるを得ない連中の巣窟となってしまったオンライン集会所の状況」については別個に書くと思う。それぐらいおかしい。
 今後のモンスターハンターについては、あとどれぐらいハンターそのものの強化をゲームとして許容するのかが1つの課題になるだろう。今作では垂直方向の挙動と強制ダウン攻撃が解禁されたわけだが、今後どこかのゲームのように「必殺技」とか「メガ進化」とか言い出さないかは心配ではある。もっともそれ以上にまたCAPCOMという企業が3年ぐらい「MH4系」のゲームを延々作り続けないことを祈るばかりではあるが。
 

2013年10月8日火曜日

MH4 感想 (6)

 年々厳しくなる匠ハードルを越え、先日ついにモンハンの装備作りにおける俺の個人的な1つの終着点である「斬れ1」、「高耳」、「高速砥石」の3つのスキルを備えていて、かつ見た目が個人的な許容範囲に入る装備を作成することができた。それが下記の構成である。

武器スロ不要
ミヅハ【烏帽子】 防音【1】
クロオビメイル 研磨【1】
アカムトサクンペ 研磨【1】
クシャナアンダ 研磨【1】、防音【1】×2
アカムトケマル
龍の護石(聴覚保護5、千里眼2) 研磨【1】×2

高級耳栓、砥石使用高速化、斬れ味レベル+1

 ミヅハは素で聴覚保護に5もSPを有しているので、護石で聴覚保護に5以上SPがあれば、その2つだけで耳栓までは付く。地味にお守りがスロ2でまともな方なので、お守りが悪く、かつ耳栓で妥協できない場合は武器スロが必要。
 余談だが、この構成は別のお守りに変えない限りこれ以上発展する可能性を有していないため、俺の要望を満たす上では潔い。これでMH4における装備作りは一段落である。

2013年9月24日火曜日

MH4 感想 (5)

 ダラ・アマデュラというでかい蛇をぶっ倒して、MH3Gと同様、HRの上限が解放されたので、どうやら俺はラスボスを倒したらしい。
 この蛇については、とにかく初見だとどこを攻撃して良いか迷ったことが印象に残った。いっぱい段差があって移動が面倒だったが、変な動きをせずに、あの巨体で足場ごと押しつぶせばよいのに蛇ちゃんが馬鹿設定されているおかげでのろのろしているので、飛び乗ったりジャンプ斬りを撃つタイミングは割と沢山ある。ラスボスというより老山龍やシェンガオレンと戦っているような感覚だった。
 この蛇特有の攻撃方法として、謎の光子を飛ばしてくる攻撃が挙げられる。この光子は初見だと色的にゴア・マガラと同様の狂竜ウィルスでも飛ばしているのかと思ったが、全くの謎の光子であった。胸辺りの光子が火花のように飛んでいる部分に近づくと、溶岩に入った時のようにスリップダメージを受け続けるのだが、全くの謎の光であるため、近づかない以外に防ぐ手段が存在しない。
 しかし、実際のところこの蛇の攻撃自体はそれほど痛くないので、それほどこいつを脅威に感じることがなかった。大技として、この謎の光子を水流のごとく頭を振りながら撃ってくるのだが、当たっても即死というわけでもなく、アマツマガツチの水圧カッターや、アカムトルムのソニックブラストのような一撃必殺という印象が全く残らなかった。しかも結構簡単にかわすことができる。
 適当にザクザク斬って倒すと、上記した通りHRが解放されて、いつも通りいきなりHR44という極端な上がり方をした。正直このHR制度に俺はあまり期待できないのだが、まあ勝手に上がることを期待して全クエストをやっていく。とりあえずいつもの俺のプレイスタイルだと、このラスボスを倒したことで自分内制約である「太刀のみ使用」がなくなり、他の武器を使えることになったので、いつも通りここから全武器を使ってやり残したクエストをやることにする。「全クエストソロ制覇」、「wiki使用不可」という自分内制約がなくなり、オンラインによる協力プレイが解禁される「天地狩猟の覇紋」取得まではまだ遠いことを期待する。

2013年9月22日日曜日

MH4 感想 (4)

 集中してやっているので大分進展度合いが飛ぶが、「団長からの挑戦状」という、毎度恒例の最終鬼畜クエストをクリアしたところまでやった。今回の相手は狂竜化ジンオウガ+激昂したラージャンの疑似「双獅激天」の後、シャガルマガラ1頭を狩るという、初心者が3DSを投げ捨てること必至のクエストであった・・・。何気に古龍がこの類のクエストに引っ張り出されるのはシリーズ初である。
 使用した装備は(いつもいつも上位素材の時だけ優秀な)リオソウル一式+ガード性能+3、砥ぎ師+7のMHP3の時の使っていたお守りに似たもので、高級耳栓、業物、砥石使用高速化、見切り+2という、あと匠があったら俺はもう何も防具を作らなくて良いという構成である。武器は当然今作における太刀使いの対古龍決戦武器である痛い名前のシャガルマガラ武器である。あの名前は止めていっそのこと明らかに形状が酷似しているロトの剣とか言い切った方がすがすがしいぐらいである。何気に名前の痛さに反して上記したスキル構成だと会心率が驚異の55%にもなり、匠を付けるとこれでもかというくらい白ゲージが伸びるガチガチな武器なので、付いてなくて良かったかもしれない。
 「最終鬼畜クエスト」である一方で、実はこのクエストもMH3Gの村最終クエストと同様、モンスター同士の攻撃でモンスターの体力が削れるので、最初の疑似「双獅激天」はジンオウガが倒れるまで逃げまくるという戦法で比較的簡単に攻略できてしまう。特に激昂したラージャンの攻撃がジンオウガにとってとても痛そう(ジンオウガが泣きながら戦っている姿を想像してしまう)なので、適当に攻撃しながらできるだけラージャンの新型ビームなどをジンオウガに誘導すると早く一対一の状況を作ることができる。
 この方法で一対一まで持ち込んでラージャンを倒すと、後は上記した痛い武器を作る際に殺しまくったシャガルマガラだけである。2頭同時の後で古龍という、一見時間制限が厳しくなりそうなクエストであるが、実際の所は20~30分程度で攻略可能であり、MHP2Gの「モンスターハンター」よりは時間管理の点で楽である。
 攻略すると勲章と微妙な腕装備と微妙なお守りが貰えるだけなので、報酬で玉が出なかったら初心者でなくても3DSを投げ捨てるかもしれない。また、いつも通り装備色彩で虹色を設定できるようになるので、塗りたい人は是非虹色に防具を塗ったら良いと思う。まあ悲しい事にモンハンで虹色に防具を塗りたくっている人は大体アレな傾向があるのだが。

2013年9月19日木曜日

MH4 感想 (3)

 村クエが一通り終わったので集会所をやっているのだが、現時点で(1人でやる場合)最高難度のクエストは集会所HR3の「燃石炭の納品」であることが判明した。驚くべきことに、採取マスター+ネコの採取術を発動させた状態で臨んでも、燃石炭の必要納品数10個に対し、全ての採取場所を回って50分全て使って4個しか採れない場合があった。絶望しかない。これパッチ当ててもらいたいんだが・・・。完ソロを目指す人は運が悪いとここで躓くかもしれない。歴代でも指折りの糞クエストである。3回やっても運が悪い俺はクリアできていない・・・。

2013年9月16日月曜日

MH4 感想 (2)

 感想(1)で言及していたゴア・マガラについであるが・・・本当に古龍だった。モンハン生物学試験4級ぐらいには合格できるかもしれない。より正確にはゴア・マガラが脱皮したモンスターである天廻龍シャガルマガラのことを言っており、今作における村クエ用のラスボスである。モンハンの設定上、シャガルマガラには当てはまるのだが、「古龍は捕まえることができない」の法則にゴア・マガラは反するので、もしかしたら脱皮する前は飛龍とかで、脱皮することで古龍性(という謎の性質)が高まるのかもしれない。
 さて、シャガルマガラについては単純に十分な強さを持ったモンスターだと評価できる。見た目はウミウシ状態のゴア・マガラを白くした感じである。とにかく爆散するブレスを連発してくるので、初見だと予想着弾地点の2割増しぐらいで距離を取った方が良い。狂竜化を誘発するブレスの内、遠くに着弾してプレイヤー側に死角からリバースしてくるものを撃ってくるので、G級とかで威力が高かったら危ないと思う。まあ村クエぐらいだと1発2発被弾しても十分回復が間に合うのでその点は問題がない。頭を破壊してサブクエを達成したい場合は素直に段差から飛び乗ってダウンさせた方がやりやすい。
 部位破壊の目的を達成したらモンハンの基本に戻り、正面は避けて後ろ足を切りつける→ダウンを取ったら弱点の頭という行程で問題なく倒すことが可能。昔の古龍のような連戦も無い。当然古龍なのでこれも基本通りに龍属性武器=この時点では基本的には(痛い名前の)ゴア・マガラ武器を持っていく。
 シャガルマガラを狩ることで本作のエンディングを観ることができる。OPでいつもの「英雄の証」がリストラされたことを危惧したり憤慨したり絶望していた人はこのエンディング内で聴けるので安心して良い。
 もっともモンハンの世界はいつも通りここからである。ドラクエで言うとやっと勇者用にはがねのつるぎを一本購入したぐらいだということである。

2013年9月15日日曜日

MH4 感想 (1)

 さっそくゴア・マガラを狩ったところまで集中してやった。とりあえず全体的な感想を書くと、客観的に見て(最新作なので本当は当然なのだが)MH4が現時点のモンスターハンターシリーズでは最も出来が良いと思う。MH4は完全新作と言うよりは、これまでのシリーズの問題点への対処をきっちりやっていて、更にこれまで積み重ねてきたものをきっちり組み合わせていると感じるので、単純に1つのモンスターハンターシリーズとして出来が良い、と個人的には思う。悪い言い方をすれば前シリーズと同様の部分も目立つということだが、このゲームは既にこれまでに商業的な実績を持っているゲームなので、謎の専門用語を導入されたり、これまでと全く違う操作方法を要求されるなど、進化の名を語った迷走よりは、ゲームの根幹部分は変えない保守的で地道な進化の方が俺は良いと思う。そもそも全く別なことを始めるのなら世界観も共有せずに全く別のゲームをゼロから作った方が良い。
 具体的には下記が個人的に取り入れられて良かったと思う点である。


  • これまで取り入れてきたプレイヤーを便利にするシステムの再導入(肉焼き器や投網マシーンの復活、予備ポーチの復活等)
  • オトモアイルーのカスタマイズ
  • ただのハンティングアクションからハンティングアクション・アドベンチャーっぽい演出への変化
  • 無料のオンラインプレイ

 実際に製品に触れて分かったことなのだが、特に3点目については、これまで全く孤立無援でほぼ隔絶された世界で行っていたソロプレイの中に、他の村の登場、自分と同じハンターや、ちゃんと仕事をしている(ように見えている)ギルドの存在、物語の展開を示すムービーシーンの増加などの演出を駆使することで、ただのハンティングアクションから、ハンティングアクション・アドベンチャー(っぽい)体裁を作ることに成功している点で注目すべきかと思う。一応これまでのモンハンの中でも個々のクエストの依頼者や依頼文の中にストーリー的なものが示唆されていたのだが、今回は村クエの方はきっちり依頼人や目的が明示されており、進行に合わせてキャラバンのメンバーが加わるなど、より強く物語があることを意識させる作りになっている。

 他方で経験者だからこそ鬱陶しいと感じた点が下記。

  • MH3系と変わらず初心者であろうが経験者であろうが同様に表示される日本国民の400万人ぐらいは既に知っているであろう事柄に関する説明。特に「もう一度聞く」の選択肢
  • シリーズ初の物語冒頭では回復薬を置いていないダメな雑貨屋。集会所のハンターショップまで売られていない徹底ぷり
  • 上下動作の多さと3DS単機での視点変更の限界
  • インナー(下着姿)で登場して戦う主人公(笑)

 モンハンは大体「お、そろそろ軌道に乗り始めるな」というタイミングがはっきりしているゲームなのだが、今作では3つ目の村まで行かないと回復薬が買えないなど、そのタイミングが遅い。これが初めての人は良いのだが、すでに過去作を多く経験した人間からすれば大分まどろっこしいと思う。正直もう今作ではずっとアオキノコと薬草を調合しなければならないのか、回復薬を置いていない雑貨屋の存在価値とは一体・・・とか思うぐらいだった。勘弁して欲しい。
 また、3点目については、上下の挙動が増えたが故に、3DS単機での操作性とこのゲームで求められる挙動のギャップが比較的大きくなっていると思う。PS3のコントローラーで思いっきり右スティックをグリグリできれば良いのに・・・と思いながらやっている。
 最後の点は言わなくても分かると思うのだが、「団長とか途中で映る奴は皆服着てるのになぜお前だけ下着なのか?寝起きの演出なのか?なぜこれが主人公の初登場シーンなのか?舐めているのか?いっそのことユアミ装備にしてパン一にしたらどうか?」と思う。
 1つ目の感想の最後はゴア・マガラについてであるが、大分初心者に配慮していると思う。何より(全員かどうか不明だが)既に素材を有している状態で戦うので、弱点属性が分かった上での戦いで、準備しやすい。俺と同じように太刀を持っていく場合は時期的にほぼ斬破刀一択になると思う。
 ゴア・マガラの挙動については、大きくなって何か吐くようになったティガレックス+アルバトリオンやクシャルダオラ系の飛行運動がこいつの全てだと思う。しかし途中から(初見の場合は最初から)、怒り状態とは別に、なかなか解除されないつるつるした頭からウミウシみたいな気持ち悪い角がにょきにょき生えて攻撃力が激増する状態での戦闘になるので、大体長期の状態変化を持つ場合が多い古龍種と戦っているような感覚を覚えた。
 ただモンスターハンターシリーズでよくある話なのだが、変なブレスや多彩な攻撃方法より、こいつの一番怖い動作は巨体を活かした真っ直ぐな突進で、それ以外の攻撃はそれほど当たり判定も大きく無いので、比較的簡単に倒せると思う。想像以上に横幅がでかいので、狭い場所で戦うとプレイヤーがどこに居るのか把握し難くなる点も以外に難易度上昇に貢献していると思う。まあブラキディオスのようなトリッキーで隙を潰してくる挙動はあまり無く、上記したウミウシ状態での爆散するブレスが最大威力なので、それと当たり判定の大きい突進だけ気を付ければ良い。狂竜化はこの感想のこの部分についでで書いている通りほぼ無視して良い。

祝!MH4発売!!



 MH4が発売された。こんなに嬉しいことはない。

2013年9月9日月曜日

1922 感想

 もはやこのブログの「小説の感想」ラベルでお馴染みの登場人物になりつつあるスティーヴン・キングの中編2本が収められた「1922」を読んだ。
 この本の内容をお馴染みの適当あらすじで書くと、この本は、土地の売買に関する言い争いで息子と(老獪な手法で)結託して妻を殺害した男の話である「1922」、癌で余命幾ばくと宣告された男が怪しげな男と悪魔の取引を行い、自分の寿命を延ばす代わりに、自分の親友を不幸にする契約を結ぶ「公正な取引」の2編から成る。原題が"Full Dark, No Stars (「星も無い真っ暗闇」)"であることから分かる通り、暗いと言うより陰惨な話ばかりの本である。原作は2010年に出版されていて、ちゃんとキングが仕事をしていたことに驚かされる。まだ彼女に貸してもらっていないので読んでいないが、(和訳本では)「ビッグ・ドライバー」という中編2本が収められた本とセットである。
 まず「1922」については、キングお得意の殺害プロセスと死体の描写、子供の描き方が見どころである。しかし、俺はこれらの描写以外に、個人的に(ほとんど本編とは関係ないが)「行き場の無い知力」ほど不幸なものは無いという感想を持った。別にこの本だけが起因になっていたり、今に始まったことではないのだが、俺は時々、その半分の部分の素晴らしさに目を瞑り、もう半分の悪い部分だけを見て、「もっと馬鹿で間抜けで人の感情とか考えとか全く分からず、毎日同じことを繰り返して何も考えない人間に生まれてくれば良かった」と考えたり、彼女に話したりして辟易させることがあるのだが、本作のウィルフレッドの描写や設定を読んでまたそのように考えた。
 ウィルフレッドの設定は大恐慌前の1922年、実は不況に差し掛かっていた農業を営んでいる田舎の家庭を支え、学位を持っているわけではないが、読書好きな一見しっかりした知力を有している男である。別にそれほど深く触れられていないし、上記した俺の脱線気味な勝手な感想が無ければ特段触れるような点でもないかもしれないが、この男は使用する目的も有さず、徒に本を通じて知力を高めていったことで(あまりにも無駄な)苦痛を味わうことになったと思う。具体性を持たない知力は中途半端な計画と、中途半端な結果に対する認識と、終わることのない悪夢をこの男に与えることになった。「行き場の無い知力」ほど悪いものは無い。それが無ければこの男も心の中に「陰謀男」を巣食わせることにはならなかったのだ。別の場所で何も考えずに農業を続けられたかもしれないし、何も考えずに妻の言うことも聞けたかもしれない。変な表現になるが、これは感想としては的を外しているが、俺個人にとっては的を得ている感想だと思う。
 次に「公正な取引」については、古いタイプの本来のキングらしい作品が好きな人は好きになると思う。全く新しさは感じないし、結末も展開も全てが誰でも読める内容だが、やはりスティーヴン・キングはこの中編で表現されているような(真っ暗で)「超自然的」な主題を取り扱うことから、未だに逃げていないのだなと思う。この種の作品に「戻ってきた」わけではなく、彼はそもそも「相変わらずそこに居る」ということなのだろう。

2013年9月2日月曜日

FFXIV 新生エオルゼア 感想

 やらないといつまでも気になると思ったので、「逆に計画的に集中して本当は一か月ぐらいやるところを無理やり1週間ぐらいでやる」を目標にFFXIVを買ってログイン戦争を勝ち抜きながら無理やりプレイした。とりあえず全体的な感想を書くとオンライン部分以外はよくあるFFで懐かしいということである。
 いつも通りストーリーを適当に書くと、(いつも通り)クリスタルに選ばれた主人公がエオルゼアという「第七霊災」で傷ついた世界で冒険者として、どうでもいい小間使いみたいな仕事から、蛮神と呼ばれるいわゆる召喚獣達との戦いまで、様々なことを経験しながら、やがてエオルゼア全土の支配を目論む(どこかで見た)帝国のスネーク達と戦う話である。
 この「(いつも通り)」や「(どこかで見た)」という点はむしろ好意的に受け取られるべきだなと思う。ファイナルファンタジーという日本のRPGを背負っていた作品は、第12作目で「あれ・・・こいつ主人公?」という展開になって、第13作目で「ファルシ・・・?ルシ・・・?はあ?」という展開になって以後世間的には広く「死んだ」と認知されつつあった。特に第13作目は普通に表現すれば良い言葉を無駄な専門用語で言い換えて馬鹿なパラフレーズを作る、これまでのFFにあったはずのユーザーの自由な冒険を否定する、などの巨額の費用を投じて壮大な自殺行為を挙行して、値崩れしまくったその2作目も含めてユーザーに「他のRPGの方がまだマシだわ」という感想を持たせることになった。文字通り迷走である。
 (新しい方の)第14作目の良い点は、「思ったよりちゃんとしてるじゃん」という感想をユーザーに持たせる作りになっていることだと思う。旧FFXIVの一切、そして第13作目の多くの点が思い出したくない過去であることは周知の事実であるため、「新生エオルゼア」も駄目かも・・・と多くの人々が予想していたと思うのだが、その予想を良い意味で裏切って結構ちゃんとしたFFになっている。サーバーの数が足りなくてログインができないという点に(ものすごく寛大な心で)目を瞑れば、正直オフラインにして、「砂の家」のメンバーをストーリーの進展に合わせて仲間に加えられるようにすれば、「新生エオルゼア」はリビルドした第12作目だと言っても過言ではない。
 もちろんMMORPGなので、ダンジョン攻略などでMMORPG特有のロールの押し付けや、圧倒的なクエストの数と取得経験値の制限などはあるので、合わない人は合わないと思うのだが、第11作目を楽しんだ人はもちろん、第12作目、第13作目に絶望した人にはちょっと触ってみることを薦める。
 (余談だが)俺は個人的にはもちろん骸旅団やアグリアスのヘルプメッセージの再登場にちょっと嬉しくなった。あと今作のシドはシリーズ屈指のイケメンである。

2013年8月28日水曜日

MH4のOPの話

 このOPの何が良いかって言うとガチムチのオッサン2人しか登場しなくて腐った連中に猫以外で媚びてないことだと思う。どうせなら操虫棍じゃなくて大剣とヘビィという2大もっさり武器を担がせて2人共ハゲにしてくれれば良いのに。あと狂竜化したティガレックスがゴア・マガラとかいう新参を食えば良かったのに。

2013年8月27日火曜日

「人間性を捧げよ」→「人間性を捧げよ」

何かまた一人病み村の虚無僧が増えたのでもう1つ人間性を捧げることになった・・・。

2013年8月20日火曜日

気づくとあと1か月→「人間性を捧げよ」

 先ほどイーカプからメールが来て気づいたのだが、9月14日のMH4の発売日まであと1か月を切っている。いやーまいったなー全然やってる場合じゃないなーこれ。11月のフロンティアも絶賛死の行軍中であることが不可避的に見込まれるという・・・。毎年下半期は人生を賭けた面接と試験大会が開催されるし、なんか数年前から論文という病み村の虚無僧みたいなやつに猛毒にされながら進軍することになっているのだ・・・。

2013年8月15日木曜日

「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」

 突然だが、俺の2013年1月~2013年8月15日までにやってきたことは、全て失敗に終わった。完膚なきまでに大失敗である。就職活動もUNVやICCにRegret Letterをガンガン送られてしまうし、学業も様々なアクターと政治的状況により立ちいかなくなるし、良かったのは彼女との仲ぐらいであった。クソ貧乏人である俺はこの8か月間の試みに身銭を切って様々な努力のために何十万も投じてきたわけだが、全て水泡に帰した。完敗の中の完敗で今日の終戦記念日である。
 「糞がよぉおおお!!」と密かに応援しているただてる先生の動画を観て(内心俺下手したらこの流れでYPP試験にすら呼ばれないんじゃね?と思いながら)毒を吐いていたのだが、ふと(俺以外誰も練習してなかった糞部活の)高校の時の剣道部の先生が話していた山中幸盛の言葉を思い出した。というかそもそもやりたいことが決まってるのにクソ貧乏人故の恐怖心で、何かしら人生を綺麗にしようとこれまで無駄な努力を繰り返していたことに苛立ちを覚えた。
 止めるわ。やりたいことがあるからそのために全力でぶっ飛ばすことにする。そもそも俺の人生は綺麗どころかほとんどの部分が七難八苦でソウル傾向も真っ黒だった。このままもう跡に草木一本残らなくても良いからやりたいことをやる。

洞窟へ行ってきた


(非常にわかりにくいが)洞窟内。白いのは人間性ではなく人間である。
この前彼女と一緒に洞窟へ行ってきた。暑いので涼しいところへ行こうという極めて単純な魂胆である。場所もマニアックで、山口の秋芳洞という田舎である。

洞窟入口。水が青い。

  涼を求めて洞窟へ行ったのだが、当日は異様に気温が高かったので、逆に沢山汗をかくことになった。しかし洞窟内は年中17℃で保たれているらしく、冷蔵庫のようになっていたので、確かに冷えることは冷える場所である。

棚田のようになっている場所。暗いが水は綺麗だった。

ニト戦の下の地形が上に来たような場所。

 洞窟内は大体20分ぐらいあれば十分見て回れるような広さである。途中で上に上がるエレベーターがあるのだが、そこら辺から既に暑くなる。コウモリなどの動物が生息しているようだが、俺は一瞬横切った奴しか見ることができなかった。

外はこんな感じでカルストと呼ばれる地形が広がっている。暑かった。

 外に出ると秋吉台を一望できる。ここで弁当を食べた。また、夏みかんソフトクリームが売られていて、元祖とかいうのに釣られて買って食べた。暑かったので今ぐらいの時期がおいしいと思う。

タイムトンネル?とかいう場所。何か彼女がここはもういいとか言ってじゃあいいかと思って完全にスルーしたので詳細不明。
 
 帰りはバスが異様に少ないことを危惧して高速で復路を歩いて帰った。


2013年7月31日水曜日

新しい駐日大使のキャロライン・ケネディさんについて

 たまにはフルブライターっぽくまともな話でも書いておくかと思ったので、今日は新しい駐日大使になるとされているキャロライン・ケネディさんの話でもする。
 キャロラインさんは政治や外交経験は少ないものの、オバマ大統領の強力な支持者の1人らしい。コロンビア大でJ.D.を取っているので、これからコロンビア大のローに行く場合は彼女が先輩になる。スタンフォードのローに行く人は現在の駐日大使が先輩である。ちなみに今は亡きキャロラインさんの弟我々の先輩である。
 この件がなぜフルブライターと関係があるかと言えば、フルブライト奨学生は壮行会で駐日大使と直接会って会話することができるからである。まあセキュリティとスケジュールが許せば、ということだと思うのだが、壮行会の日の朝に駐日大使への質問コーナーがあり、夜は駐日大使と酒を飲みながら話す機会がある。なので、これからフルブライト奨学生になる人は、是非キャロラインさんに対する質問を考えておくと後で役に立つと思う。
 この点については、(キャロライン氏は経歴を見ると「弁護士です」という感じではないが)ロースクールへ留学する人はまあロースクールの話でもすれば良いかなと思う。他に「あなたもルース氏と同様に広島平和記念式典にアメリカの公人として参加するのですか?」といったことも是非質問して欲しいとは思うが。

2013年7月17日水曜日

国際私法の罠

 今年のYPPについては、俺の場合なら当然Legal Affairs枠で出すべきなのだが、過去問を見るとどう考えてもInternational Transactionに関連する法理論について聞いていて、これは案外俺にとってはまた1つ作業が増えるなと思う。
 俺はNYU(というか今までの経験)で普通の国際法に加えて、International Criminal Law、International Humanitarian Law、International Human Rights Lawなどの国際公法の花形分野を全てやったので国際公法ならまあ大丈夫なのだが、国際私法はまずいなーと思う。真面目に国際私法だけ勉強したという経験が無い。Administration枠の過去問の方がどう考えても簡単なので、そっちに逃げた方が単純に合格するだけならまだやり易いかもしれない。
 他方でまあ良い機会なのでこの際Private International Lawもやっておくかという気もしている。国際機関で「法学分野の専門家です(外道だけど)」とまともに主張する限りどの道必要になる専門知識ではあるのだ。
 とか言いつつ俺の「可能性病」がいつも通り発症して、Legal AffairsもAdministrationも対応可能なので自分の可能性の取捨選択に関する考察をまた去年のようにInspiraのサイトが詰まりまくる時期になるまで続けてしまうかもしれないが。もうなんか最近は「やっぱりいろんな事に首を突っ込みまくっても良いか!ははは!」とか思い始めている。

2013年7月9日火曜日

劇場版 銀魂 完結篇 万事屋よ永遠なれ 感想

 この前彼女と一緒に「劇場版銀魂完結編 万事屋よ永遠なれ」を観に行った。公開初日に行くという、別に単行本を一冊も買ってない者(彼女含む)としては極めて殊勝な心掛けであった。ジャンプ本誌とたまに観るアニメぐらいしか接点がないのだが、それでも印象に残るのが銀魂の良いところだと思う。
 今回の「完結編」の中身をいつもの適当あらすじで書くと、場末の映画館でバイトしていた銀時一行は、「No More 映画泥棒」の謎の力によって銀時のみ未来へ飛ばされるが、なぞのウィルスのせいでろくでもない未来になっていて、万事屋も解散していたので未来世界の巨乳に育った神楽さんと中二に育った眼鏡と一緒に万事屋を再結成し、世界再建の戦いへ身を投じる・・・という話である。
 最初に言っておく必要があるのは、今作は別に紅桜編やかぶき町四天王編のような真面目な長編というわけでもなく、登場人物総登場のラストにふさわしいサービス精神溢れる長編になっているので、泣ける部分より笑える部分の方が多いということである。銀魂特有の感動できる長編を期待して観ると(銀魂が好きだったらこの作品の両側面も好きだと思うのだが)裏切られるかもしれない。
 個人的に一番面白かったのは圧倒的に5年後のアル中になったマダオだった。この映画に関しては俺はそれが全てだった。今作では珍しく近藤さんも脱がないしモザイクも無かったが、それ以上に映してはいけないものを映していたので、テレビ放送だと完全にマダオの姿だけカットかマダオだけモザイクがかけられるかもしれない。まあどうせ放送するのはテレビ東京なので問題無いが。
 また、上述した通りシリアスな長編というわけでもなかったので、銀魂の良いところである丁寧なバトルシーンの描写も紅桜編やかぶき町四天王編の方が上である。まあ一応「完結編」なのでやっぱりある種のファンサービスと捉えて観るのが良いのではないだろうか。連載が終わったらまたアニメ放送をやりそうだし、「やっぱり完結編じゃありませんでしたー」とか後で言い出しても許される作品ではあるのだが。
 最後に、親と一緒に観に行っている少年少女については、上述したマダオとか、銀時がティッシュ箱を持ってトイレに消えるシーンとか、5年後のお通ちゃんのDVDパッケージとか、触れるな。無心でスクリーンだけを凝視し続けろ、と祈らずにいられません。

2013年7月1日月曜日

やっとモンハンの話

 またまた気が付くとモンハンの話を忘れて(健全なことに)現実世界に没頭していた。今日はとりあえずMH4の話に触れておこうと思う。

1.再登場する連中について

イャンクック、テオ、クシャルダオラ、グラビモス、バサルモス、フルフル、ゲリョス、ババコンガ、ドスシリーズ3体というどこかで見た面々が再登場するらしい。個人的に「モンスターハンター3系」では古龍種がぱっとしなかったので(MHP3に至っては未だにアカムとウカムが古龍種と勘違いされることが多い)、テオとクシャルの再登場は歓迎すべきかなと思う。JテオFクシャの再登場に期待。

2.更に詳細設定できるになったオトモについて

ついにオトモの毛並から何から全部設定できるようになったらしい。もういっそのこと「モンスターハンターアイルー」を作って全世界初の「猫ハンティングアクション」という新ジャンルを確立したらどうかと思う。

3.「高低差を活かした立体的アクション!」について

こういう事柄は実際に触ってみないと分からないのだが、別に平地で任意にジャンプできる設定ではなく、段差や崖に行かないとジャンプできないみたいなので、「ジャンプしない方が早い」みたいなことにならないか心配である。

2013年6月17日月曜日

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 感想

 村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を2週間ぐらい前に読んでいたので感想を書こうと思う。何気に「ツイッター」や「フェイスブック」といった用語が村上春樹の作品の中でまともに登場するのは、初めてかもしれない。そしてこのブログでまともに彼の作品を取り上げるのも初めてかもしれない。
 村上春樹は、「風の歌を聴け」という本当にサイズ的に薄い本でデビューした作家である。持っているバックグラウンドは早稲田大学卒なので、多くの日本人にとって比較的まともに見えるかもしれないが、この作家はキングや西尾維新などと同じく学校教育にそれほど価値を見いだせなかった作家の方なので、(たぶん嫌々ながら)7年もかけて大学を卒業している。彼が異様に愛しているレイモンド・カーヴァーが小説作法を学ぶためにわざわざ学校へ通ったことと対照的である。
 個人的にこれまで彼のほとんどの作品を読んでいながら別に「ハルキスト」とかいうのではない人間の立場からすると、彼の作品(特に長編)では主人公が異様にかっこよく描かれるのが特徴だと思う。彼の描く主人公の特徴をまとめると、①クラシックに造詣が深い、②文学作品に造詣が深い、③映画にも造詣が深い、④さらにお酒にも造詣が深い、⑤さらにさらになぜか英会話もできる、⑥そしてさらに女に異様にモテまくって高確率で作中で性行為をする、という性質を持ったスーパー・コーディネーターである。つまり一見頭の良いTo LOVEるみたいなものである。
 例えば今回取り上げる「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を例に挙げれば、色彩を持たないはずの多崎つくる君は、疲れたら棚からカティサークを取り出して飲み、フィンランドへ行っても現地人と英語を用いて意思疎通を図ることができ、現実世界でも夢の世界でも女性と性行為に及ぶ男である。いやー、是非村上春樹さんには次の主人公は疲れたら棚からワンカップやいいともを取り出して競馬新聞を読みながら飲む派遣社員の男や、母親を殴ってカレーを買いに行かせるグルグル魔人にして欲しいと思わずにいられません。
 さて、いつも通り作品のあらすじを適当に書くと、高校時代に仲良し5人組の一角を担っていた色彩を持たない(はずの)多崎つくる君は、大学時代のある日に仲良し5人組から突如外されてしまい、ショックで死にそうになるがどうにかこうにか耐えて就職して30代のおっさんになって女と付き合っていた際に「駄目だわ。今のお前とはセックスできそうにないわ。お前の中の闇を克服して。」みたいなことを言われて仲良し5人組から外された理由を探す旅に出る・・・という話である。
 残念なことを1つ言わなければならないが、この作品の主人公は上記した通り例外なく村上春樹の描く主人公としての性質を持っているので、色彩はあります。彼より「色彩の無い」人間がそもそも掃いて捨てるほど存在していることが自明な世の中なので、「あくまで5人組の中では」という条件付きで初めて意味を持つタイトルである。したがって、本当に色彩のない人間がこの本を買って読んでも共感できる部分は特に無い。
 これと付随して一見キング的な「その描写はフェアか、リアルか、」という基準で問題になりそうなのは、5人組の1人であるフィンランド在住のクロが、多崎つくるを仲良し5人組から外した理由を多崎つくる本人にどうしても言えなかった、という部分である。最初にクロ本人が多崎つくるにこの話をしたページの描写だと、どうしてもこの部分がフェアでもリアルでもなくなってしまうと思う。なぜなら、上記した村上春樹の描く主人公は、例外なく物分かりが良すぎるからである。ちゃんと理由を話せば「うん、分かったよ」と言って納得する余地を持った主人公なのだ。だから、作者はその後のページでクロ本人が多崎つくるに片思いしていた、シロの様子が多崎つくるの想像より異様だった、という描写を帳尻を合わせるがごとく行うはめになったと思う。それらの特段の描写がなければ、多崎つくる以外の4人が多崎つくるに彼を外す原因を話さなかった理由を正当化できなかったと思う。
 最後にこの本の終わり方であるが、村上春樹の他の作品で言えば、「アフターダーク」的な終わり方なので、あの作品の結末部分が気に入らなかった人は読まない方が良い。もっともそれ以前の問題として、村上春樹の描く主人公が気に入らない、見ていて虫唾が走るという人は、多分作者は今後も同様の主人公を量産していくので、もう村上春樹の話題に関わらない方が良いかもしれない。そういう人は諦めて彼の短編を読むか、紀行文を読むしかないかと思う。

2013年6月7日金曜日

審判 感想

 「審判」は、フランツ・カフカの作品の中でも割合世間的には「変身」と同程度に認知されていると思う。今回は俺の彼女が意味不明と言っていた作品の感想である。
 まず、フランツ・カフカという特異な人物について語られる必要がある。ドイツの代表的な作家であるカフカは、保険外交員として生計を立てながら小説を書いた。カフカはヘミングウェイやフィッツジェラルドと違い、徴兵を免れているため、戦争が彼の作品の中で登場することは基本的には無い。あの時代にあって比較的恵まれた境遇にあったと言っても良いだろう。その割に早死にで、41歳で結核により死亡している。死亡に際して草稿等は全て燃やしてくれと言っていたのに、勝手に出版されてしまった。今回取り扱う「審判」も、そんな本来はゴーゴリが(全損まではいかなかったが)「死せる魂」でやったように燃やし尽くされてしまうはずだった作品である。
 「審判」の内容を簡単に説明すると、銀行に勤めるヨーゼフ・K(30歳)が、ある朝目が覚めると突然2人組みの男に自分が訴えられて、逮捕されていることを伝えられ、よく分からないがとにかく戦うしかないということで、法廷闘争を地道に繰り広げていく話である。地道に、と書いたように、法廷闘争そのものはそれ程全面的に描かれないので、読者は常にヨーゼフ・Kが、どこかで繰り広げられた法廷闘争の結果、疲弊しきっている姿を見ることになる。
 まあそもそも草稿の作品だったということもあり、この作品は俺の彼女が指摘したように一見意味が分からない。より厳密に言えば主題がどこにあるのか、読者は常に気を払って探し出す必要があると言って良い。終わり方まで突然でシュールである。
 実は俺はヨーゼフ・Kという主人公が好きである。俺がモンハンで使っている名前もこのブログで名乗っている名前もそこから取られたものである。KになったのはMHP2の時はまだカタカナが使えなかったので、ヨーゼフを表現しづらいということでKにしたのである。というわけで夏目漱石の「こころ」のKとは、モチーフ的には関連しているが、それ自体は俺個人の直接的なモチーフではない。カフカの作品が直接的なモチーフである。なぜか作者なりに思い入れがあるようで、同名の主人公が「城」などの他の長編でも登場する。
 俺がヨーゼフ・Kを好きな理由は、この男の実直さにある。この男、なんだかんだ言って忍耐力があるのである。「城」でも「審判」でもそうなのだが、この男はカミュ的な不条理にいつも巻き込まれて、迷宮のような裁判所や城、いつも2人組みで登場する道化野郎共、繰り返される繁文縟礼な手続、それらに疲弊しながらも粛々と立ち向かっていくのである。「もうやめた」とか言わずに付き合ってやるのである。この実直さが俺は好きなのだ。殺しても殺しても絶滅しない非実在害獣に立ち向かっていく不条理に付き合わされている主人公にぴったりである。
 物語自体について触れれば、「審判」は、日常の中にある非日常めいたものによって、人の人生が影響を受ける様を描いている。「非日常めいたもの」というのは、本作品で展開されるどこでやっているのかよく分からない法廷闘争であり、それは完全に夢や幻などではないのだが、やはり現実からは遠いのだ。手続、更には建物の構造や他者の性格そのものの複雑性が、現実からの乖離に拍車をかけている。それでいてその「非日常めいたもの」は人の生き死にを左右してしまうほどの決定的な力を持っているのである。「いやいや、おかしいだろ」と言って笑いながら突っ込みを入れてしまうような不条理さに、善良な小市民は殺されるのだ。その意味での皮肉めいた社会の軽さと重さが、よく描かれていると思う。

2013年6月3日月曜日

グレート・ギャツビー 感想

 読み直したいと言っていた「グレート・ギャツビー」を早速読んだ。俺としてはまともに自分で買って本を読んだのは(論文等を「確認」したのを除けば)実に数か月ぶりのことである。6年ぐらい前に買って読んだ本をもう1度買いなおして読むというのも不思議なものである。あと何度この作品を俺は死ぬまでに買いなおすのであろうか。
 いつも通り、まずスコット・フィッツジェラルドという不幸な男の話をしておかなければならない。まあ、まともな作家などは大体不幸なのだが。フィッツジェラルドはプリンストン大学を出て軍に入隊し、その後NYでコピーライターとして生計を立てながら小説を書いた。今回取り上げるグレート・ギャツビーは、彼の非凡な能力が注目を浴びていた、1925年に出版された作品である。この時期が彼の人生で最も輝いていたと言っても過言ではない。「移動祝祭日」という、ヘミングウェイの作品の文庫版としては新しい方に入る短編集でも言及されている通り、フィッツジェラルドの人生は貧困や妻の統合失調症などにより、苦行のようなものだった。偉業を残す人間は恵まれない境遇に生まれている、とか、世間では言われることがあるのだが、そんなことは他人事かつただの消費者だから言えるだけである。
 さて、その苦行の連続であった男が人生の絶頂期に書いた作品が「グレート・ギャツビー」である。いつもの簡略あらすじを書いておくと、イェール大学卒の主人公ニックは、証券会社で働くためにニューヨークへ出てくるのだが、そこで隣の家で毎晩のようにパーティーを開いているジェイ・ギャツビーと出会い、彼との交流を通じて、既にトム・ブキャナンと結婚しているデイジーという女性へのギャツビーの思いを知る・・・という話である。
 「グレート・ギャツビー」は一見名前からして華やかそうな話であるが、悲劇である。FFタクティクスの感想を書いた時と似たような感想だが、この作品も例外なく「持たざる者」ギャツビーのための出口などどこにも用意していない。自分の全てを偽物で塗り固めて二度と取り戻せない高尚な理想を追い求めるギャツビーも、自分の本物の成功者の地位を利用して低俗な現実を維持するブキャナンも、破局へ突き進んでいく。
 上記した簡略あらすじだと、一見ギャツビーの恋物語のように見えるが、それは違う。この物語でギャツビーが追いかけていたのは、過去に交際した良家(で例外なく浅薄)のデイジーという女性ではなく、彼女に投影している二度とやり直せない自らの過去という理想である。ギャツビーは、デイジーを手に入れることで、彼女に現在の夫のブキャナンを「愛したことはなかった」と言わせることで、自分が理想としてきた自分の人生が再構成されると思い込んでいるのだ。単純に自らの快楽のために愛人を囲っているブキャナンとは対照的である。悪い言い方をすればブキャナンは「大人」で現実しか見ていないが、ギャツビーは「子供」で、理想しか見ていない。
 しかし、この一見愚かな行いは、単に愚かだと否定されるべきものではないだろう。作者が語り部たる主人公を通じてギャツビーを褒め称えたように、嘘で塗り固められたこのギャツビーという男の自らの成功への理想へかける一途さは本物で、高尚だったからである。愚かさと偉大さは両立できるのだ。

2013年5月31日金曜日

ライ麦畑でつかまえて 感想

 ヘミングウェイの作品に触れた辺りから、本当はフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の感想を(思い出して)書こうかと思ったのだが、不思議とまた読み直したくなったので、今回はJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の感想である。
 J.D.サリンジャーは、20世紀のアメリカ文学を語る上で欠かせない作家の1人であることは間違いない。その特徴は何と言っても厭世的な態度と数本の(しかしあまりにも卓越した)名作であり、2010年に死ぬまでにほとんどの作品を書かなかった(リンク先で言われているように計画はあった)にも関わらず、数本の代表作で世界中の読者の心を掴んだ稀有な作家である。まさに作家の中の作家である。
 今回取り上げる「ライ麦畑でつかまえて」は、放校処分を受けたどうしようもない落ちこぼれである我らがホールデン君が、3日間いろいろな人に会ってうんざりしながら、自分の将来についてなんとなく考える話である。ナルトどころじゃない落ちこぼれっぷりなので、是非「俺は落ちこぼれだ」とか勝手に言っている連中に読んでもらいたい。一見ホールデン君は終わっているから。しかし、彼は最終的に「広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」を目指して新たな人生へと旅立つのだ。
 実は個人的にはサリンジャーの最高傑作というか、この作者の全てが込められたと言っても過言ではない作品は「バナナフィッシュにうってつけの日」だと思っているので、「ライ麦畑で捕まえて」よりも気に入っているのだが、この作品も俺の大好きな作品である。サリンジャーの作品で疑いの無い代表作ということもあり、俺が最初に出会った作品もこれだった。
 俺が「ライ麦畑でつかまえて」で好きな場面は、終盤に彼の元恩師の先生と会話する場面である。先生の「学校という場所は自分の頭のサイズを知る場所だ。そのサイズが大きい人も居れば、小さい人も居る」という趣旨の話の後、ホールデン君はこの恩師を「ホモ野郎じゃないか」という疑いを抱いて去っていく場面である。この描写を俺は非常に気に入っている。なぜなら、この意味での「冷めた賢さ」を持つ若者の姿こそ、サリンジャーという作者があらゆる作品を通じて見出しているものだと思うからだ。
 例えばホールデン君と対極に位置するように見えるグラース家の長男シーモアも、その原案となったナイン・ストーリーズの天才少年テディも、この誰にも止められない「冷めた賢さ」の持ち主である。これは冷え切っていて、誰にも止められるものではないのだ。ホールデン君が自分で「広いライ麦畑で遊んでいる子供たちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」になろうとしたように、自分で止めるしかない。止められなければシーモアのように自殺してしまうかもしれない。
 しかし、作者はこのどうにもならない冷たさを、自問自答で解決できるものだと位置づけていない。結局自分以外のものとうんざりしながら、誰にも止められるものではないと分かっていながら、もう話したくないと思いながら、「ホモ野郎」と思いながら、暖めていかなければならない冷たさだと位置づけていると思う。ホールデン君が3日という時間を使っていろいろな「どうでもいい連中」に会うという、一見無駄なプロセスを踏んだのもそのせいである。これは、「フラニーとゾーイー」でゾーイーがフラニーを説得した際に言った「それでも太っちょのオバサマのために」という言葉で示されている。この話をした張本人であるシーモアが自殺してしまったように、どうにもならないことはあるかもしれないが、それでもろくでもない世界と関わっていかざるを得ないのだ。その上で自分で決めるしかないのだ。「太っちょのオバサマのために、彼女のためだけに」やっていくのである。それがおそらく生きていくことだと、作者は考えていると思う。

2013年5月28日火曜日

居酒屋 感想

 エミール・ゾラの作品の中で最も入手しやすいものは「居酒屋」であることには疑いがない。「居酒屋」は、彼のライフ・ワークである「ルーゴン・マッカール叢書」全20巻の内の第7巻であり、同シリーズの中では最も社会的に大きな影響を与えた作品であるため、優先的に文庫化されて販売されているのだろう。俺はルーゴン・マッカール叢書全作品を死ぬまでに全て読むことをまだ諦めていないのだが、他の作品は出版社が違ったり本のサイズが違ったりしている上、通常の書店では売られていないことの方が多いため、ここ5年ほどこの試みは滞っている。現在までに俺が読んでいるのは、第1巻「ルーゴン家の誕生」、第2巻「獲物の分け前」、第7巻「居酒屋」、第9巻「ナナ」、第12巻「生きる歓び」、第13巻「ジェルミナール」である。この内、第9巻「ナナ」もゾラの代表作の1つとして扱われているので、容易に入手可能である。
 さて、ゾラについて書くのはこのブログでは初めてなので、例に倣って作者自身について言及しておこう。フランスの代表的な作家の1人であるゾラは、出版社で働きながら作家をめざしたという背景を持っている。「ルーゴン・マッカール叢書」は、彼自身の「実験小説論」、すなわち、「ある環境に置かれた一定の遺伝的・生理的条件をもつ人間の変化反応を描く〈実験としての小説〉を提唱する理論」に基づいて書かれたシリーズである。簡単に「ルーゴン・マッカール叢書」に当てはめて言えば、ルーゴン家の血を引き継ぐ者のそれぞれの人生が描かれている。したがって、それぞれの巻で描かれている世界観は連続しており、かなり展開が分散した大河小説と思って読めばとっつきやすい。手法としてはバルザックの「人間喜劇」を基にしており、漫画でいえば「ジョジョの奇妙な冒険」、ゲームで言えば「サガ・フロンティア2」が好きならゾラのことも好きになるだろう。基本的に多くの作家が心のどこかで追求している自分の文学作品の世界の構築を、意識的に実践した作家である。
 「居酒屋」は、本シリーズの第7巻に当たる。いつも通り簡易あらすじを書くと、ルーゴン家の血筋であるジェルヴェーズは、洗濯女として一定の成功を収めるものの、煙突掃除を生業にしていた再婚相手が調子に乗っ・・・業務上のミスにより高所より転落してしまい、仕事ができなくなって酒浸りになり、DV、アルコール依存、貧乏、売春未遂、孤独等が「順当に」ジェルヴェーズの人生に殺人コンボを叩き込んでいく・・・という話である。
 本作品が社会的反響を呼んだ理由は、この本自体のテーマ設定と言うよりは、ここで言う「殺人コンボ」の描き方が詳細に渡っていて、当時問題にされていた貧困層の現実を鮮明に描写したからだと思う。この類の不幸の描写は、現在でこそ使い古されたものなので現代の人間から見れば「順当」なのだが、当時は読者の目に刺激的に映ったのだろう。(大分)醜悪な言い方になるが、ハンニバル・レクター博士が拷問器具の展示を好奇の目で鑑賞する客を軽蔑しながら「慈愛を持って」分析していたように、この類の描写は読者の「好奇の目」を惹きつける手段としては効果的なのだ。小論文や入社試験で「自身の経験に基づいて記述しなさい」という課題があり、自分の不幸話をもっともらしく書こうという人は、採点官の極めて人間的な「好奇の目」を惹きつけるために、「居酒屋」を読んでおくと、不幸を描く手段の勉強になるかもしれない。
 この本で俺が好きな場面は、上記した「殺人コンボ」の内最も醜悪と言って良い場面の、主人公ジェルヴェーズが貧困のあまり、売春のために通りすがりの男に声をかけに行くところである。この場面は、本書における彼女の盛衰を決定づける場面であり、洗濯女として成功した者が、自分の社会での失敗を自分で享受した印象的な場面である。しかも自分を捨てて声をかけた男にジェルヴェーズは無視されてしまい、社会での自分の価値が完全に否定されてしまう。最終的に作者がジェルヴェーズに与えるものは孤独死であり、彼女を徹底的に堕落させるのだ。
 この描写の一徹さは、作家として称賛されるべきだろう。文学作品の執筆には学問のような「価値自由」は求められていないし、作家が自分自身を投影しない作品は逆に面白くないという評価が下されているが、ゾラは、執筆の際に打ち立てた「実験小説論」という自身の規範を、自身の価値観よりも優先させて、この作品を描いていると思う。

2013年5月24日金曜日

海流のなかの島々 感想

 そう言えば彼女に「ブログは3日に1回ぐらいのペースで更新して欲しい」とか言われていたので、じゃあ今まで俺が読んできた本でも思い出しながら感想でも書くことにする。ぱっと思いついた本は今回はヘミングウェイの「海流のなかの島々」である。
 「海流のなかの島々」は、リンク先で書かれている通り、彼の最晩年の作品の1つである。死んだ後に彼の妻によって発見されて勝手に出版された類の本なので、その意味ではそもそも作品はすべて捨ててくれと言っていたのに勝手に出版されたカフカと同様、出版するつもりで作者が書いたのかも不明である。ヘミングウェイの作品の中では名高い「老人と海」と情景描写が非常に近いものがある。「海流のなかの島々」の第4章が「老人と海」らしい。
 いつも通り超適当あらすじを書いておくと、本作は3章から成り立っており、第1章「ビミヒ」、第2章「キューバ」、第3章「洋上」という、連続しているようで連続しているのかどうかは不明な世界線上で、トマス・ハドソンという男の人生を描いた作品である。ここで言う「連続しているようで連続しているのかどうかは不明な世界線」は、各章ごとに場面の跳躍があるために生ずる現象で、ヘミングウェイのファンなら彼の素晴らしい短編である「ニック・アダムズもの」を読んでいるつもりで読むとまあ納得はできる。共通しているのはどれも海と男が登場する物語であり、ヘミングウェイの作品なので、当然この男、彼が自分を投影したトマス・ハドソンは幸福ではない。ヘミングウェイの卓越した「切り詰められた文体」で、一人の男の人生が描かれている。
 俺はこれまで読んだ本の作者の中で、トーマス・マンと並び、アーネスト・ヘミングウェイはかなり優れた技術の持ち主の1人だと思っているので、そこらへんの話はいつか適当な時に「誰がために鐘は鳴る」の感想を書いた際にでも書くことにする。ここでは、俺が「海流のなかの島々」で一番好きな場面について書く。
 俺が一番好きな場面は、中盤から後半ぐらいで、主人公があるバーに入って「フローズン・ダイキリ砂糖抜き」をがばがば飲みまくるところである(隣のオカマ野郎はハイボールを飲む)。なぜこの場面が好きかと言うと、俺が大学生の時に酒を飲むきっかけとなったからである。今でも多少はそうなのだが、俺は酒を飲むという行為に、20歳になって以後もかなりの期間全く関心が持てなかった。しかし別にこれは酒に限ったことではなく、俺はお菓子やらアイスやら、3食必要な量以外の食事を摂るという行為や、必要な睡眠時間以外に設ける昼寝の時間など、それらの必要外の行為を文字通り必要外として見做す謎の禁欲精神を持っていたので、酒もその例外ではなかったと言った方が良い。
 このような禁欲精神は、それぞれ禁欲の対象となっている事物ごとに次第に失われていった。昼寝については彼女が昼寝ばかりする困った人種だったせいであったのだが、酒については、間違いなくこの「海流のなかの島々」を読んだせいである。とにかくこの主人公がなぜ沢山ダイキリを飲むのかが気になってしまい、酒店で当時は多く売られていたカクテル・パートナーのダイキリばかり買って飲むようになった。酒はイメージで飲むものだと思う。俺の場合は「海流のなかの島々」が自分の中に酒のイメージを作ったのだ。別に味が良いとかどうかは全く分からないのだが、ダイキリが好きになった。その結果、次第にじゃあビールを飲んでも良いかもしれない、他のカクテルも良いかもしれない、ということになり、「事後的」に酒の美味しさが分かるようになったのである。
 というわけで俺が酒を飲むようになったのはヘミングウェイのせいである。飲酒運転等で逮捕されたり、「原因において自由な行為」として酒の力を借りて犯罪行為に及んだ場合は、是非「ヘミングウェイのせいです」などと供述しようと思う。

2013年5月8日水曜日

動物園に行った(※GW中ではありません)感想とバク祭り

大の字で寝るメガネザル。
日本をはじめとする先進国では、長期休暇中にちゃんと遊んでないと、「ワークライフバランスが取れていない」→「勤労が強いられることによって人間性が歪められ、人間は不幸な生活を送っている」→「勤労は害悪である」とか言われがちなので、「じゃあ日常的に遊べばいいだろ!小学生時代の4時間目で授業終了した日の14時付近の間延びした時間を思い出せ!」キャンペーンを展開すべく、別にGW中に行ったわけでもない平日に彼女と行った動物園の感想を書くことにする。このタイミングで書く理由も、寵愛する我らがソニーのサイバーショットの特異なUSBケーブル(ヤマダ電機等で聞いてもなぜか存在せず、ほぼ確実に取り寄せになってしまう素晴らしいアイテムである)をすぐに紛失してしまうせいである。ソニーのせいである。モンハンがPS3とVITAで出ないのはソニーのせいである。

ライオンと違って「勤勉」なトラ。

 このブログで何度か書いたように、俺は人間以外の動物に限っては非論理性を愛しているので、動物は意味不明な行動を取れば取るほど好きである。その点、バクは素晴らしい。最後まで馬鹿たっぷりだもんな。ということでこの記事はバク祭りにすることにした。

バク(マレーバク)。成長しても二足歩行になり五円玉を糸で吊って子どもを誘拐したりしない

 
バク近影。この背中の丸みが至高なのである。

バクの尻。水場に浮いている黒いやつは俺の彼女の説だとこいつらのうんこである。

バクの親子か夫婦か兄弟か他人同士か。バクの難点は見た目で大人か子どもか分かりにくい点である。

 バクは一族一系統で、マーズランキング2位の一族一種の雷撃生物を思い出させる進化を遂げた生物らしい。しかし残念ながら現実のバクは別に夢を食べる能力は持っていないから火星のゴキブリ達にはすぐに蹂躙されてしまうだろうし、「ゆめのけむり」も出さないだろうから、「やめたげてよお!」と言われるまで蹴られ続けることも無い。本当に平和な生物である。

2013年4月27日土曜日

国連YPP試験に合格する方法を真面目に考えようの回

 前回のフルブライト奨学金に続き、俺の人生における次の敵は国連YPP試験になったようなので、真面目にこの試験を攻略する方法を考察しながらしばらく生きていこうと思う。毎回残りHPが???になっていてライブラが無効の敵を相手にするのは疲れるのだが、こういう生き方の方が俺としてはしっくりくるのである。
 まあ出願する分野にもよるのだが、とりあえずSpecialized Paperの方は前回やった方法でそこそこ対応できていたので、案外簡単かもしれない。やることと言えばほぼ決まっていて、①国連事務総長報告書(SGレポート)をイシューごとに読む、②イシューを包括的に説明している基本書を買って読む、の2つで(理論通りに体が動けば)7割ぐらいはできるのではないかと思う。
 ①のSGレポートというのは国連マニアであれば常識なのだが、国連では数年ごとに各イシューを専門的に論じた事務総長(Secretary General)の名入れの、いわゆる各イシューに対する国連の立場そのものを示していると言っても過言ではない文書が存在する。例えば1992年のPKOの質的転換を明示した「平和への課題」も、当時の国連事務総長であるブトロス・ガリによる報告書である。この類のレポートは当然探し出して読む必要がある。
 ②のイシューを包括的に説明している基本書とは一般的に流通している教科書を指す。もちろん①の文書の方が重要度は高いのだが、Specialized Paperは大問3つ以外は7つの比較的短い文章を書かされるので、基本的なTechnical Termの定義や意味を短く説明できるようになっている必要がある。
 もっとも「理論通りに体が動けば」と上記した通り、日本人にとって重要であるのはいかに早く綺麗な英語の文書を手書きで書くか、という点である。実際やった人間は味わったと思うのだが、まともにやると後半部分の論述の質が疲労により下がっていく。鍛錬で克服できる問題か不明なのだが、アメリカの司法試験やロースクールのテストのようにキーボード入力を国連が許可してくれる可能性は、「試験形式の平等を保つ」という名目で現状では非常に低いので、手書きで解答を作る練習は必要になるだろう。一見馬鹿みたいな要素だが、案外この点は馬鹿にできたものではない。
 Specialized Paperよりも個人的に問題であるのは前半部のGeneral Paperだと思う。おそらく前年度の試験形式を国連は踏襲してくると思われるので、まず試験形式から言うと今年も①英文要約+②マークシートだと予測する。②のマークシートは昨年度の場合だとYPPのHPでGeneral Paper対策用に配られていた過去問と形式そのものが異なるので、実際はそれほど対策にはならなかったし、個人的な感触として、実際のマークシートの問題では国際社会における問題群よりも、詳細な国連機関の組織関係に関する理解が問われていたと思う。よって、ここで足切を食らわないためには、個別の機関の統括機関は総会なのか経済社会理事会なのか安保理なのか、権限関係はどうなっているのか、機能はどうなっているのか、といった点を理解する必要がある。対策方法としてはいわゆる「国連ファミリー」の見取り図を早めに入手して、各機関の機能や権限を把握する作業が求められるだろう。国際社会の問題を見る時も、どの機関がどの機関の統括下で取り組んでいるのか、その機関と協力している機関は何か、ということを理解しておく必要がある。
 余談だが昨年日本の外務省国際機関人事センターから頂いた素晴らしいアドバイスが下記。

(一般試験)
 一般書籍等で国連の概要を把握した上で,国連事務局が公表している,UN NEWS,事務総長報告,プレスリリース等に目を通し,現在の国連事務局の課題や重点目標について理解する。
国連文書検索システム(Official Document Search System)を利用し,応募分野に関連する報告・プレスリリースを検索し,読みこむ
 UN-ODS http://www.un.org/en/documents/ods/
 国連について知見のない方は,まずは国連英検の勉強を糸口としていただくのも一案です。

(専門試験)
・政務分野
 他分野に比べて,総長報告,プレスリリース等への理解が求められ,読みこみが必要。



というわけでとにかく読み込みましょう、というアドバイスであった・・・。どう考えても国連自体の存在を知らない人間でない限り、知りたい情報はここで言う「プレスリリース」や「事務総長報告」のイシューの具体的な範囲や内容なのだが、とにかく読み込むことが必要らしい。残念ながら、上記した物理的な理由により、日本人の場合はとにかく読み込んでいても(多分)負けます。また早い所俺が合格してこのブログで「国連YPP試験攻略法」でも書ければ良いのだが・・・。

2013年4月21日日曜日

大神 絶景版 感想

 「大神 絶景版」をやった。久しぶりにちゃんと終わるゲームをやったのだが、やはり物語として終わりがあるゲームというものには価値がある、と再確認させられた。そして、ほぼ10年振りぐらいに所謂「神ゲー(ならぬ「大神ゲー」)」と呼んでよい作品に出会ったと思う。
 絶景版はいわゆる「HDリマスター」企画のものなので、2006年に発売されたこのゲームの話の筋を今更書くのも時機を逸している感があるものの、このゲームは筆業を使った新感覚アクション以上に物語そのもので人を惹きつけるものを持っている、と思う。簡単な筋だけ書くと、昔ヤマタノオロチという日本人におなじみの妖怪をイザナギと共に退治した大神アマテラスは、闘いの後絶命し、永い眠りについていたが、封印されていたヤマタノオロチの復活とナカツクニにおけるタタリ場の広がりを危惧した神木村の大樹に宿る木精サクヤの力により復活し、復活したヤマタノオロチを退治すべくコロポックルであるイッスンと共に冒険を繰り広げる話である。
 話の筋だけ一覧すれば、多くの日本人にとって今更感のある話を今更やっているように見えると思う。登場人物は多くの部分で日本の昔話を基に再構成していて大味な印象を抱かせるし、神話や民俗学に無駄な知識を持っていて、あらゆる物語は史料に忠実でなければならないとする(めんどくさい)者にとっては陳腐に見えるかもしれない。
 しかし、「大神」というゲームは、現代的な感覚を取り入れて登場人物の個性を尖らせる、音楽に気を遣う、グラフィックを独特なものにするなどの工夫により、物語を陳腐にしてしまうことを見事回避している。これにより、既視感を覚える展開はむしろ王道で、陳腐に見える史料の改変はオリジナリティとして受け入れられる余地を作り出し、プレイした者の感情を上手く揺さぶることに成功していると思う。「良いゲーム」の1つの要素として「MOTHER2」のような「おとなも こどもも おねーさんも」共に楽しむことができるという性質があるとすれば、このゲームはマリオやポケモンとは異なる方法でこの性質を獲得している。
 特にこのゲームの評価はラスト近辺の展開で絶賛を受けている点があるのだが、この点も「MOTHER2」と共通しているものがある。日本における神と人間の関係性の中核を穿つ展開であったことや、そこへ至るまでの主人公の旅路が(個性的な登場人物のおかげで)容易に想起できることなど、ゲームでの主人公における最終決戦の理想像を作り出すための十分な下地を持っていた作品だった。
 余談だがもう1点主人公が犬神だったことも「おとなも こどもも おねーさんも」楽しめるゲームを作り出す要因となっていると俺は個人的に思う。(とりわけ日本人としての感覚で言えば)やはり人間の隣に付き添っている動物は猫や馬ではなく、犬であるべきなのだ。ペットの種類としてNo.1のシェアを誇っていることや、あらゆるメディアでの登場頻度が高いという理由などがあるのかもしれないが、日本人は多くの人が犬への慈愛の感情をどこかで共有しており、無理に共感できる台詞や態度を探さなくても、気が付くと多くのプレイヤーは主人公のアマテラスに肩入れしているだろう。「猫派原理主義者」という意味不明のカテゴリーに属さない日本人には是非「大神」をプレイすることを薦めたい。

2013年4月13日土曜日

「自分不幸」についての目的自由的な思索

 自分勝手なことばかりしていると親に迷惑をかける、という意味で「親不幸」という言葉が定義されているが、親が居ない場合はこの言葉は正当性を持たない。迷惑をかける対象が居ない。
 それでは親が居ない場合には誰が不幸になるのかと言うと、それは自分である。「自分不幸」である。勝手なことをして良い結果が出ない場合を前提としている点で、そもそも「親不幸」という言葉自体、普遍的な適用可能性は持っていない。しかし、何はともあれ何か自分が困難に直面した時、(生物学的な、あるいは社会的にミニマムなコミュニティにおける管理者として)困難を乗り越えるための具体的な利益を提供してくれる人が親と同義に扱われているわけだから、そのような関係性が存在しなければ不幸になるのも幸せになるのも自分だけである。
 他方で、翻って考えてみれば、そもそも「親不幸」に当たる行為をしてはいけないという主張の正当性は、疑わしいと言えば疑わしい。そもそも親は自分ではないし、自分という存在は親と記憶も感覚も共有不可能であり、更に言えば血縁関係という前提を抜きにしても、自分が感じることは自分しか分からないのである。
 つまり、子どもとしての自分は親が本当に不幸になっているかどうかは、厳密に言えば分からないのだ。FXで親に借りた2000万円を完全に不良債権にしてしまった場合であっても、もしかしたら貸した当人である親は、実は相続した遺産20億の内の2000万円なので、「まあいいか」と思うかもしれないし、思い上がった馬鹿息子の心を折るためにあえて貸して失敗させて嘲笑っているかもしれないし、実は白血病で明日死ぬかもしれないから、2000万円なんて取るに足りない問題になっているかもしれない。それらの可能性はあくまで可能性であって、実際にはどれに該当する心情を親が抱き、幸福になるのか、それとも不幸なるのかは、親が決めることなのである。
 それでは親の不幸を自分の中で決めているのは誰かと言えば、それは自分という親の心情を斟酌する者である。より厳密に言えば、自分が知っている親という他人の性格に基づき、個別具体的な状況に合わせて、親が持ちうる心情を想像し、自分の中で決定づけるという作業を自分が行っているのだ。完全なる他者-他者間の関係性との差異について触れれば、親という直接的な血縁関係を有し、社会的に最も近接した関係性を共有しているとされるが故に、ここで述べた、自分以外の他人の心情を決定づける根拠となる事実を、より多く記憶に留めることができることが挙げられるだろう。「恋人不幸」や「友達不幸」という言葉が、定義についての記述を抜きにして、それ単独で意味を構成しなかった理由は、この意味での関係性の距離的な近さに見出される。
 関係性の距離的な近さが、「親不幸」という言葉の正当性の根拠を構成すると解釈できるならば、やはり「自分不幸」という言葉が実際には最も強い正当性を有すると言える。もっとも、ゼロの距離に位置する自分の心情と、自分の心情を解釈する自分を区別でき、かつ、「自分不幸」という日本語のテキストを音読した際に生じる語呂の悪さに我慢できればの話だが。

2013年3月21日木曜日

ヱヴァンゲリヲンと日本刀展に行ってきた

各所で取り上げられていたアスカが彫られているアスカそのものをイメージした短刀。

近影。

 この前彼女と一緒にヱヴァンゲリヲンと日本刀展に行ってきた。備前という日本刀の名産地の職人達が、マゴロクソードとか、ANIMAとかいう派生作品やスパロボでしか登場しないエヴァの武器やら、TV版だとカッターナイフだったのに新劇場版だとちゃんとそれっぽいナイフになっていたプログレッシブナイフに(「決して媚びているわけではない」体の)感銘を受けて、自分達も造ってみようということで製作された刀剣類の展示企画である。


「序」で碇君が初号機にトウジ達を乗せたまま泣き叫びながら突貫した際に用いたプログレッシブナイフ。

会場ではミサトさんによるそれぞれの展示物の解説を聞くための機器を貸してくれる。そしてミサトさんはこのような末端の企画の解説にあっても相変わらず一貫して「エバー」と言っていた。もう治らないらしい。最初の挨拶だけテンションが高くて、その後の解説は真面目ぶってまともであった点も「実は最も汚い大人代表」の葛城ミサトらしい。個人的には、碇シンジが父親以上に本当に殴り合う必要がある相手は葛城ミサトだと思う。

「破」で2号機が用いていたプログレッシブナイフ。

類似の型のプログレッシブナイフ。柄の形が微妙に異なる。

 刀剣類の展示の他に、ガイナックスによるTV版の企画書が展示されていた。おそらくファンならそちらの方に関心があると思われる。特に目を引くのは「立て!エヴァンゲリオン!!」とか言っている碇ゲンドウ教授の設定画があった点で、なぜ企画書通りにこいつの性格が設定されなかったと思わずにいられない。

刀匠達が頑張って製作したロンギヌスの槍。(多分この企画が遂行されたのは「破」の時点の話なので)カシウスの槍は製作されていない。

 また、企画書には「最後は大団円」と最終話のあらすじに書かれていた。というわけで「最後は大団円」である。今後のエヴァンゲリオンにご期待下さい。

2013年3月20日水曜日

下関へ行ってきた

売りのペンギン。


 この前彼女と海響館へ行くために下関まで行ってきた。もちろんふぐを食すことも目的である。海響館は4階ぐらいあるそこそこ大きい水族館で、冒頭の写真に写っているペンギンが売りらしい。

クジラの全体骨格で日本ではここにしかないらしい。
丁度行くとイルカとアシカショーをやっていた。BGMがキングダムハーツ版のクマのプーさんの曲だという気持ち悪い無駄な絶対音感を俺が働かせたりした。「あーこれキングダムハーツ版のクマのプーさんの曲だよねー」とか、気持ち悪いことを俺は言ったりしない。

(見づらいが)俺たちが食したトラフグ。
水族館はクラゲやら熱帯魚やらウミガメやら基本的なことは押さえている感じで、「無難」な印象があった。トラフグやフグの仲間など、下関ならではといった展示はそういった「無難」な印象を拭い去るための措置だと思われる。

「海を飛ぶ」ペンギン。

 俺は個人的にはこの水族館の価値は、1F奥から続くペンギンコーナーにあると思う。とにかくいろいろな種類のペンギンたちが居て、彼らの色々な表情を見ることができた。中でも印象的だったのは、陸をのそのそ犬や猫のごとく歩くフンボルトペンギンで、「非日常が当たり前の顔をして日常に居る風景」を見ることができた。日本ではかなり一般的に見られるペンギンらしく、もしミサトさんの如くペンギンを飼うなら高確率でこいつになりそうである。

「普通に歩く」ペンギン。歩くとサクサク音がしてうわー動いてるわこいつらみたいな感じになる。

 水族館でペンギンを堪能した後、ふぐを堪能しに行った。ふぐは誰が食べても美味いと言いそうな味がしていて、まあ毒があっても食べたくなる気持ちは分かる。刺身、唐揚げ、鍋、なんか鉄板の上で焼いた奴、雑炊まで全部食べたが、「もう半年ぐらいはふぐを食べなくても大丈夫かもしれない」という状態にはならなかった。やっぱりふぐは別格らしい。
 余談だが旅行中に高杉晋作の享年が27歳だったことを知った。今年で27歳になる俺としては、俺も今年で死んでも後悔しないようにしようと思う。多分俺の享年は27歳にはならないんだろうが。

2013年3月7日木曜日

最近の(荒ぶった)独り言

  • 「うわーこいつメディアインストールしてねー。またかよ・・・さっさと終わらせて出よ・・・」
  • セレクト押せよ!!
  • 「はいはいまた無言貼りでしょこいつは?」
  • 「まじ吹き専勘弁して。お前が走れよ。」
  • 「早く準備しろよ!!っていうか待ってる間にボックス見とけよ!!どうせ見るんだったら!!」
  • 「いやいや、『手伝って下さい』って書いてるのに『やりたいクエありますか』とか聞くなよ・・・出るわ。」

2013年2月21日木曜日

「『飢えなきゃ』勝てない。 ただしあんなDioなんかよりずっとずっともっと気高く『飢え』なくては!」

もっと本当にいろいろなものを「手に入れにかからないと」駄目だ、と思う。単に思ってるとか、動いてるとかじゃなく、「手に入れにかかる」という「事実」が必要だ・・・!!とジョジョに影響を受けている筆者は最近常に思っている。

2013年1月28日月曜日

炭酸野郎

 俺はアメリカに居た時に炭酸が欲しい病にかかっていた「炭酸野郎」だったと思う。振り込まれるフルブライト奨学金を使って毎週3本ぐらいは150ミリリットルサイズのペットボトルの炭酸飲料を購入していた、ということを今日日本に帰って初めて飲んだ7UPを飲んで思い出した。日本で7UPを売っているメーカーがサントリーだったということも今日初めて知った。
 7UPはどう考えてもスプライトと競合しているが、1つ良いところを上げると炭酸が気持ち(2時間ぐらいは)スプライトより長持ちする点だったと思う。本当に気持ち程度である。アメリカのスプライトは開封して2日目の夕方ぐらいにはもう炭酸が全く感じられなくなっていたりしたので、俺は7UPの方が好きだった。炭酸飲料というのはつまる所「炭酸」という部分に価値の大部分が(99セントの缶だったら70セントぐらいは)あると思うので、いかに炭酸が長持ちするかという点は評価において大きなウェイトを占めると思う。流石にA&Wのルートビアなどは味の点で駄目なのだが。
 アメリカで俺が最も飲んだ炭酸飲料は間違いなく(大学に置いてあった自販機の関係で)ペプシなのだが、最も好きになった炭酸飲料は間違いなくドクターペッパーである。どう考えても体に悪い味なのだが、そこが好きなのだ。コーラの風説に代表されるように、炭酸飲料を飲めば「骨が溶ける」とか言って多くの子どもたちが実は全く頼りにならない母親に叱られる以上、炭酸飲料などいっそのこと味からして「体に悪い」と言わしめんばかりの存在になった方が良いのだ。
 俺のルームメイトは途中から(俺からすれば)底の浅い話すだけ無駄な野郎になって、「朝はジムに通ってるしプロテインも飲みまくっているんだよね、その上夏休み中もインターンしているし、なんて僕って『善良』なんでしょう!」みたいなアピールを露骨にする人間だったので、「毎日非実在害獣を殺しまくっているしドクターペッパーも飲みまくっているんだよね」という俺は、(彼らのような「善人」からすれば)全く異なる生物として捉えられていただろう。残念なことに俺は気持ち悪いプロテインなんかより、もっと日本のコンビニがドクターペッパーを売るようになって「駄目」な飲み物をたくさん増やして欲しいと思っている。

2013年1月25日金曜日

本を読まなくなる日常

 俺は本を読んでいない。日常が他のことで忙しくなると、数ある娯楽の中から俺は読書を捨てる選択をしているらしい。まあ仕事とか論文とか生活とかうんざりした時に本を読むのと、モンスターを殺しまくるのでは後者の方が自分自身に快感が届くスピードは速いと思うので、「手軽」という理由で俺は読書を捨ててモンハンを取っているらしい。
 論文を書いているくせに本を読まないというのは矛盾している、というのはまともな論文を書いたことのない人の意見であることに疑いが無い。一見不思議な話をするが、学問というのは熟達すればするほど本を読まなくなる作業になる。全く文章を読まないという意味ではなく、一冊の本の理解にかける時間が少なくなる、あるいは本の全容を理解しないまま、書いている論文の中で「引用」という形で理解をしている体を装うのである。「読む」というより「確認」に近く、論文を書いている時に「読む」のは純粋に作業である。
 この作業についてより正確な言葉で言い換えれば、学問をしている時、俺たちは文章の取捨選択を素早く繰り返し行っているということになるだろう。少なくとも寝る前に本を読む時よりは早く行っているし、不思議な話で、慣れると初見の本だろうと、どの言語で書かれた本だろうと、文章の取捨選択ができるようになる。つまり自分の中で取捨選択をする際の基準がより強固になり、記憶や印象にとどめる前に、文章を「読む」前に、「見た」段階で意識から捨象する作業を連続して行っているのだ。
 このような国語のワークブックで登場しそうな文章を俺が書くのも全て「本を読まなくなる日常」のせいだと俺は思う。思い出せば、俺が高校生の時に解いていた評論系の国語のワークブックの問題は「人間が無意識的に行っている事のパラフレーズ」に満ちていた。おそらく書いていた人間も俺と同様にそれほど健康的ではない日常を送っていたのだろうと思う。
 この事に批判的に言及している以上、俺の「無意識」は「本を読まなくなる日常」から抜け出ることを望んでいると思うので、俺はまず彼女から借りたままになっている司馬遼太郎の「国盗り物語」を読むことにする。

2013年1月11日金曜日

Northwestern の悪夢再来・・・

 実はあるUNVポジションの面接に呼ばれていたのだが、俺の担当者が面接時間は8:30とだけメールに書いていたので、「朝8時30分」と日本人的な感覚で解釈してしまっていた。実は夜8時30分からという意味だったらしい。
 まあそうだよな?金曜日の朝8時30分から定時まで働く人種なんて日本人ぐらいだもんな?PMかAMかぐらいつけろよ・・・と思ったが世界の常識だと8:30は十中八九「夜8時30分」で、「オイオイ金曜の朝8時から仕事なんて勘弁してくれよ、金曜は適当に流して昼過ぎにフけるに決まってんだろ社畜野郎」ということらしい・・・。
 これでまたNorthwesternの悪夢の再来だよ・・・。また俺は朝5時とかからそこそこ人生を賭けた面接を受けることに・・・。

2013年1月2日水曜日

2013年度の標的

 もう3年目の試みになるが今年の標的は下記。

1.俺の英語にスピードと正確性を持たせて、国連YPP試験の野郎をぶちのめすことができるようになる。

説明不要で問答無用。勝ちたかったらやるしかない。

2.「学生」を終わらせる

何かNYUが終わった時にもう学校で得るものって多分無いかもなーとか思ったのだが、一応博士論文を書いて提出しないと形式的に終わったことにならないらしいので、ある種の仕事のように粛々と終えようと思う。

3.何か書く

無意識的に年にいくつも文章を書いているので、結局また何か書くことになると思う。「何か」の中身だが、そろそろ「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」という連中にうんざりしているので、「俺たちは駄目で駄目で駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴らなんです許して下さい」という人々の「何か」にしようかと思う。