2012年11月26日月曜日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO. 感想

 この前彼女と一緒にエヴァの新作映画を観に行った・・・のだが、当日予約をしていなかったらもう一杯になっていて当日に観ることができなかった。「こんなヲタクの象徴みたいな社会で虐げられてきたコンテンツにそんなに人集まらないだろ」と言っていたが、間違いだったらしい。「依然としてヲタクの象徴として虐げられているものの、ヲタク自体の社会的認知度と総数が高まったことにより逆説的に社会的地位が上昇したコンテンツ」になったらしい。
 あれだけ旧劇場版で作品自体がヲタクを叩きまくったのに皮肉な事態である。どうやら庵野監督が本当に引きこもったヲタクの息の根を止めてまっとうな公務員やら、会社員やら、バイト店員やらにするためには、アスカを食べさせて登場人物をジュースにして皆殺しにするだけではなく、より徹底してヲタクの願望を根絶するために、登場人物を徹底的に貶めて、辱め、惨殺するか、徹底して意図的な駄作を作るか、今回の作品中であったように碇シンジを罵倒し、貶めるセリフを30分ぐらい長々流しまくるしかないらしい。もっとも金を持ったヲタクを集客しないとコンテンツ自体の市場価値が無くなってしまうため、旧劇場版自体ある種の炎上商法みたいなもので、意図的にパラドックスが引き起こされてしまっていたのだが。
 さて、このような旧劇場版に存在した「パラドックス」を払拭するような流れが序・破共にできつつあったのだが、今回のQは再びシンジ君の努力と作品中での価値を否定することで、大きな「葛藤めいたもの」を意図的に発生させている。作品の名前が「序・破・Q」とあったことで、観客は新劇場版の試みは「三段構成」だ、と思わされていたが、今回のQの展開と告知された「シン・エヴァンゲリオン」の存在でそれは破壊された。もっとも、今回のQを観ればおそらく上述した「ヲタク」にとっては良い意味で破壊されたのだと思う。もし「三段構成」だったら、結局「エヴァンゲリオン」というコンテンツはある種の悲劇でしかなかった、という評価で終わっていたのだが、序破急の仮面を被った起・承・転・結の4段構成だと再定義されたことで、今回のQは単なる「転」であり、「主人公が全否定されても、登場人物が悲劇的で(かつほとんど無価値に見える)死を迎えても、説明が全く存在しない不親切な文脈に沿って物語が進行しても、中盤が単なる『綺麗なホモアニメ』」だったとしても、大いなる「結」へ至るための「意図的な蹉跌」なのだ、と解釈できれば、Qの内容を前向きに捉えることができる余地はある。
 ここまで書いていて一見「形式的なネタバレ」は無いように見えて、「実質的なネタバレ」をしているのだが、不思議と「エヴァンゲリオン」というコンテンツの価値を損なっているように見えない。これは、実のところQの内容である「意図的な蹉跌」は、文字通り「意図的」であるだけでなく、観客である俺という一人の「ヲタク」がある意味「期待」していた展開だったからかもしれない。碇シンジは全てを可能にするヒーローにはなれなかったし、世界は救われなかったし、大切な人も守れなかったし、登場人物は14年経っても不親切で自分のことだけで精一杯だったし、世界は徹底的に破壊された閉塞感の塊だったが、おそらくこのような描き方でしか感じさせることのできないリアリティと世界観を、俺は「エヴァンゲリオン」というコンテンツに無意識的に期待しているのだと思う。ただの14歳は14歳の小僧でしかなく、取り巻く大人も聖人君子ではないが、それは「現実」の位相の1つには違いないのだ。いつもと違って全く感想に「クソ適当あらすじ」を書かなかったが、エヴァンゲリオンに関してはこれで十分だと感じる。

2012年11月6日火曜日

「リーチ確定よ」

 今年の国連YPP(Young Professional)試験のPolitical Affairs枠の筆記試験に進んだので、久しぶりに「俺がやっていること」に深く関わる勉強をすることになった。試験時間は4時間半で手書きらしい。
 こういう試験を大学生の頃からずっと待ってた。全力でぶっ飛ばす。