2012年3月1日木曜日

人種差別について

NYUに来てからなぜか履修している教科群や日常で起こる出来事が相互的にリンクすることが多いのだが、最近また1つの波のごとく俺の生活にたびたび登場しているのがこの人種差別の問題である。
 人種差別の問題は本当に奥が深い・・・らしい。「らしい」というのは、おそらく俺はまだ人種差別が根付いた社会の繊細さや、そういった社会で暮らす人々の人種差別問題に対する積極的・消極的な恐怖心を理解できていないと思うからだ。と言うより、普通に日本で暮らす限り人種差別の問題で心を砕く必要が少ない。日本の代表的な「人種の違い」を理由とする差別は在日韓国人に対する差別だと思われるが、本当にそういった問題で困った経験を持つ人間が何人居るだろうか。例えばアメリカの事例のように、日本において特定の公共交通機関で在日韓国人と日本人で乗ることができる場所が区別されるような、明確な「違い」を日常生活の中で実感する機会があったわけではない。また、他にもいわゆる部落差別が日本における差別の問題として代表的だが、別に「部落」に属する人について、憲法上日本国民としての公民権が否定されていたわけではない。個々の地域では差別の一定の制度化が進んでいたようだが、国家的な強制力を持って差別が法的に正当化されていたわけではない。
 アメリカにおける人種差別が日本と一線を画すのは、人種による差別が公共政策の一環として、明示的な強制力を持つものとして全国規模で実施されていた点だと思う。16世紀から19世紀という長い期間、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人は、多くの州において公共政策上、「明示的に」白人達によって搾取されるべき「物」であり、人権の保障された「人」ではなかったのだ。肌の色や文化や言語の違いは、アメリカにおいては単に個々の人間関係における差異の認識としてではなく、経済社会的な「格」の違いとして認識されていた。そして俺は未だに自分の経験として全然実感がないのだが、今でもこの意味での「格」の違いは残存している。
 強調した通り、この人種差別の問題が厄介な点は公共性を持っていたことだと思う。差別の公共性は差異が個別の人間関係内で収斂されるのを許さず、差異の社会化を図ろうとする。仮に1つの社会の方向性として、例えば奴隷制度という明示的な形で差異が公共性を有していた場合、自然に発生しうる極めて個別的な人間関係として、自分と異なる人間の存在を捉えることが困難になる。公共政策が差異を差別として同定することで、個別的な人間関係上の他者への評価が「歪まされて」しまうのだ。南アフリカのアパルトヘイトやアメリカでの奴隷制度などは、こういった公共政策上の価値判断に基づく歪んだ他者への評価を、各世代ごとに再生産することに成功したのである。
 このような人種差別に対抗する「戦略」として、アメリカでは市民権運動が起こったのだが、実は上述した個別的な人間関係上の差異と公共政策としての差別の違いを考慮すると、俺は自分の個人的な経験から、この戦略がTinker v. Des Moines Independent Community School District で登場する申立人の両親のように、運動への強制的な動員を迫る場合には問題があると思っている。
 俺が生まれた地域では部落解放運動(水平社運動に通ずる用語だと思われる)が活発に行われていた。俺はこれが嫌いだった。内容の正当性は認めるのだが、子供心にそのやり方に違和感があった。例えば小学生の頃は毎年この「運動」に熱心な団体が開く演劇を観に行くことを小学校に強制されていた。俺は友達と「お前もう観に行った?」といった内容の会話をしていたのを憶えている。これが俺は本当に嫌だった。演劇の内容の陳腐さは置いておくとして、何より「運動」への参加を「強制」するやり方が気に食わなかった。異なる人間に対する評価を「差別」として強制した人々と、それに対抗するために「差別」とは反対の評価を認識させるために「運動」として強制した人々に、考え方に違いはあるのかと思ったのだ。すなわち、問題であるのは、水掛け論的な他者に対する評価の違いという、実質的な部分ではなく、一定の評価や価値観を他人に「強制」するという手続き的な部分だと思ったのだ。
 例えば、1つの思考実験として、奴隷制度が存在しない状況で、白人と黒人が出会って自然に言葉を交わし、人間関係を形成した場合、なお白人は黒人を自分より劣る存在だと、「十中八九」思うのだろうか?黒人は白人を自分より上位の人間だと「十中八九」思うのだろうか?俺はこれは「否」だと考える。人間が他者との関係上、他者に対して下す評価というのは、それほど単純で形式化されたものではない。もちろん肌の色の違いというのは初めて目にした場合は驚きだろうし、人間が相対的に物事を考える傾向から、どちらかの人種はどちらかの人種を劣っている・優れていると考えるかもしれない。しかし、「十中八九」傾向のある考え方はしないだろう。上記した「強制」的な性質を持つ戦略は、この意味での評価に「傾向」をもたらし、それによって純粋な人間関係の形成を阻害する社会装置として機能しうる点で問題がある。
 このように考えると、国際人権規範上確立されている人種差別の禁止というのは、「公」と「私」の区別を前提にして理解する必要があるだろう。もちろん上述した通り俺を「運動」に強制した人々の正当性を完全に否定することはできないが、教条的に人々の私心にまで踏み込むような意味で規範の順守を迫ることは、自然な人間関係上の他者の認識に対する「不純」な傾向を生み出す点で抵抗がある。白人が黒人の大学への入学を人種を理由に断ることと、偶然知り合った白人の性格の悪さに辟易している黒人が居ることは区別されるべきである。俺が運動への参加を「強制」する戦略が嫌いなのは、後者の事例において自然な価値判断で人間関係を捉えることを許さないような傾向を生み出すかもしれないと、危惧しているからだと言える。

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