2012年3月26日月曜日

猫物語(白) 感想

(あり得ないが)俺が仮に西尾維新の「物語シリーズ」のみで読書感想文を書けという課題を解く場合、俺は迷わず「猫物語(白)」を選ぶ。いつも通り俺の勝手な評価だが、今まで読んだ中では「猫物語(白)」が「物語シリーズ」において最も優れていると思う。少なくとも「猫物語(黒)」や「偽物語」や「鬼物語」に千円以上払う価値ははっきり言って無いが、この「猫物語(白)」には千円ほどは払って読む価値があると思わされた。
 いつも通り極めて簡単に「猫物語(白)」のあらすじを紹介しておくと、私立直江津高校3年の羽川翼という「本物」の才女が、夏休みが明けて学校へ行く途中に虎の怪異と出会い、「自分の家」が火事で全焼して知り合いの家を転々とする内に、その虎の怪異が火事の元凶で、しかも障り猫と同様自分が生み出した化物だと言うことを知る・・・という話である。
 俺が「猫物語(白)」を優れているとする理由は、単純にこの本が羽川翼という1人の人間を描くことに純粋に向き合っているからに他ならない。一応他の「群像劇中における劇的な人々による喜劇」でも、それぞれ主要人物の背景等は描写されているのだが、今作ではいわゆる語り部が描写されるべき当人になっている点と、おそらく本来は作る予定の無かった「第2シリーズ」を能動的に作った結果、自然に今までより目的的に文章が構成されていることでメリハリがある点が要因になっているのだと思われる。千石撫子を語り部とした「囮物語」よりも優れているとしたのは、羽川翼の本シリーズへの登場回数から分かる通り、おそらく作者自身が羽川翼という登場人物を千石撫子よりもより良く理解していて、その分「羽川翼を描く」という今回の物語の展開が至極まっとうでフェアだからだと言える。より具体的に言えば羽川翼という人間が作られた文脈の描写(家族、主人公との関係、他の「劇的な登場人物」との関係、外部との関わり)がこちらの方が手厚く、説得力を持っている。
 さて、本編の感想であるが、何より羽川翼という「化物語」の世界では特異なキャラクターに言及しなければならない。本編では何度も「本物」という言葉で彼女が描写されている通り、彼女は天才として描かれている。「めだかBOX」や「戯言シリーズ」を読めば分かるのだが、西尾維新は(劇的な登場人物による物語を書くので自然と)天才や異能者を物語に登場させることが多い。これほど天才を多彩に書き分ける作家も珍しいと思うのだが、彼の物語にはやたら天才やらアブノーマルやら人類最強やら最終やらが登場する。むしろ「群像劇中における劇的な人々による喜劇」を書いている以上登場させる必要があると言っていい。羽川翼もはっきり言って他のシリーズにおいてすら天才の1人として理解されても良い存在で、他の作品であれば別に「猫物語(白)」で「問題」として扱われている彼女の「問題」は、天才であるが故の「個性」として処理されていたかもしれない。
 この羽川自身の天才性を「問題」としたのが彼女の境遇である。簡単に言えば彼女はネグレクトされていた。彼女は(どこまで行っても括弧付きの意味でしかない)「家族」からほとんど他人のように15年以上扱われていた。しかし、これは彼女にとって何の「問題」でもなかった。彼女の天才性がそれを「問題」とさせなかったのである。戦場ヶ原ひたぎの言う「闇に鈍い」というのは、客観的に見れば(他の「普通」の人々からすれば)問題であることを、自身の能力としての許容範囲の広さから羽川翼は「問題」とせずに生きてきた結果作られた彼女の性質であった。彼女は自身の天才性を遺憾なく発揮し、ネグレクトや恋によって生じる感情的なストレスを自身の他の人格に押しつける方法を確立したのである。その結果障り猫はネグレクトと恋を、苛虎は「両親」への嫉妬をそれぞれ彼女に代わって代弁するものとして生み出された。
 個人的には正直怪異が存在しなければこれはやはり「問題」ではなく「個性」として処理されうる行為だなと思う。「物語シリーズ」は劇的な登場人物が怪異との遭遇を通じて成長する物語なので、こういった自身の感情に潜む「不正」、「ずる」といったものを実は登場人物のほとんどが行っているとされている。具体的に言えば、戦場ヶ原ひたぎは母親との確執から逃げ、神原駿河は戦場ヶ原ひたぎへの想いから逃げ、千石撫子は自分の夢から逃げ、阿良々木火憐は偽善から逃げ、そして羽川翼もまた自分のストレスから逃げていた。「逃げ物語」である。このように考えると「物語シリーズ」のキャラクター設定が案外安易だったという気もしないでもない。俺は自分の本心から逃げる行為が絶対的に悪かったり未熟なことだとは個人的には思わないし、はっきり言って個人の性格が持つ差異の一部だとしか思えないのだが、青少年が成長する物語として「逃げている自分と向き合う」というのは妥当な帰着点なのかもしれない。そう考えると羽川を描いた「猫物語(白)」は、その帰着点へと辿り着く純粋さにおいて、同シリーズの他の作品より秀逸だったと言える。「囮物語」+「恋物語」や「花物語」と比較すれば分かりやすいのだが、羽川翼がここで言う「帰着点」に辿りつくまでの道のりは、千石や神原のそれと比べて明確で合理的なのだ。千石撫子や神原駿河が「問題」を抱えるのは文脈的な必然性を有さないが、羽川翼が「問題」を抱えるのは十分過ぎるほどの理由がある。実際彼女は主人公と同様、傷物語という最初の話からほぼ出ずっぱりなので、彼女が「おかしい」という描写は他の人間に比べて自然と多くなっている。
 翻って考えてみれば、なぜ彼女の描写が他の劇的な登場人物より多くならなければならなかったのかというのも自然と分かる。なぜなら、貝木のような明確な「悪」よりも、羽川翼という「絶対的な正しさ」こそが「物語シリーズ」における阿良々木暦という主人公の対となる存在だからである。おそらく作者自身も「傷物語」で羽川翼を主要登場人物にした段階で既に考えていたことだと思うのだが、羽川翼と阿良々木暦は戦場ヶ原が指摘するように同一カテゴリーに属しながら対照的な存在である。阿良々木が何の不自由もない家庭で育ち、家族が居て、自分の本心と向き合い、怪異関連以外は能力的に平凡で弱いキャラクターであるのに対し、羽川翼は自分の部屋も無いような家庭で育ち、家族がおらず(「家族」しか居ないと言った方が良いのかもしれない)、自分の本心から逃げ続け、怪異を必要としないほどの力を持つ能力的に非凡で強いキャラクターだった。羽川翼と阿良々木暦は互いに互いの影と光だったのである。「こよみヴァンプ」で最初に吸血鬼に出遭う主要登場キャラクターが羽川翼だった場合、おそらく彼女は阿良々木が抱えた問題を「問題」とすることなく吸血鬼の眷族になる道を選んだのではないかと思う。
 ついでだが、おそらくこういった対の関係にある以上、なぜ阿良々木暦は羽川ではなく戦場ヶ原を選んだのかと思う人も多く居るかもしれない。恋愛感情と言うものは究極的には火憐や月火の言う「なんとなく」だと思うので、最初に告白したのが戦場ヶ原だったということで阿良々木にとってすれば十分な説明になっているのかもしれない。他方で、戦場ヶ原や羽川サイドにとってすれば、戦場ヶ原が羽川翼に本当に阿良々木暦のことが好きだったのか聞いているように、おそらく阿良々木暦に対する感情には差があったのではないか(作者としてはそう位置づけているのではないか)と思う。つまり他人との繋がりそのものが無かった戦場ヶ原にとって阿良々木の存在が唯一無二だったのに対し、羽川翼にとってすれば「助けてくれる誰か」でしかなかったのかもしれない。もっともこの辺はそれほど明確に描き分けられているわけではなく、結局羽川翼を助けに来るのも主人公だし、「帰着点」に辿りついた後も主人公のことが好きだった結果告白しているわけなので、両者の恋愛感情に実質的な差があったのかという点は不明瞭ではある。俺個人としては誰かを好きになる感情というのは、設定上の論理性を超越した特別枠にあって問題無い心情だと思うので、最初に戦場ヶ原が告白して主人公側も「なんとなく」好きになったということで良いとは思う。

2012年3月21日水曜日

偽物語 感想

西尾維新作の偽物語の感想を書こうと思う。感想と言っても最近日本で放映されたアニメの方ではなく、原作の方である。いつも通り死ぬほど簡単にあらすじを書いておくと、私立直江津高校3年の主人公阿良々木暦の妹である火憐が詐欺師をぶっ飛ばしに行って返り討ちに遭う話と、その下の妹である月火が実は不死身の怪異だったことが分かる話の上下巻2本立てである。一冊千円を超えるのでどう考えても中高生をターゲットにしている割には高い。
 そう言えば西尾維新の小説について感想を書くのは初めてなので原作者についても言及しておこうと思う。俺は今までに明白なる彼の代表作である「戯言シリーズ」を彼女から借りて全部読んでいるのだが、彼の作風を一言で言えばキャラ設定が上手いことに尽きる。物語に許されていて現実世界で許されないことの1つに「キャラが被らない」ことが挙げられると俺は思う。実は現実世界ではあり得るようであり得ないのだが、他人とキャラが被らないような人間というのはそれほど多くない。日本人なんて実際は似たり寄ったりのことを似たり寄ったりの境遇の奴が考えていることの方が多いし、似たり寄ったりの髪型で似たり寄ったりの格好をしていることの方が多いのだ。西尾維新がやっていることはその真逆で、極めて物語を劇的にするために似たり寄ったりの性質を持ったキャラクターを本筋に登場させることはかなりの場合避ける。それも消極的に避けるというよりは、積極的に差異化を図って徹底的に避ける。もちろん他の多くの物語も作り話を短時間で分かりやすく伝えるため、多かれ少なかれ「しっかりしたキャラ設定」という名目でキャラの差異化を図るのだが、彼の場合は名前から口癖まで丁寧に差異化しようとする場合が多い。彼の作品において劇的ではない登場人物にはそもそも登場の機会そのものが限定されているのである。
 一言ではなくなるのだが、あと1つ付け加えるとすればいちいち「ここが劇的な部分ですよ」ということを文章中の表現で説明しようという点だろうか。例えばヘミングウェイ等に見せれば怒られそうな表現の仕方なのだが、物語が盛り上がる部分で―や同じ言い回しやそのパラフレーズを繰り返すのが常套手段になっている。「そこが重要な部分ですよ」というのを読者にはっきりと分からせる手法で、鼻に付く人はとことん鼻に付く方法だなと思う。逆に時間が無い人にとっては分かりやすくてありがたいのだろうが。今まで読んだどの本も主人公の独白がそんな感じなので、編集者に言われてやっているというわけでもないらしい。俺などは何度生まれ変わってもそういう書き方が絶対にできないなと思う。ちなみに俺の勝手な想像だが、彼?が自分自身のパーソナリティを投影して作ったのは間違いなく「戯言シリーズ」のいーちゃんで、おそらく彼は日常的にはいーちゃんのように物事を心の中で考えていても、おそらくその振る舞いは思っているようにはできていないんだろうなと思う。思っていることを外面に出したのが多分いーちゃんで、「新本格魔法少女りすか」の供犠創貴や「化物語」の阿良々木暦などは明確にそのオルタナティブだと思う。つまりいーちゃんに限らず他の作品の主人公もれっきとした「戯言遣い」の場合が多く、彼の作品ではある程度「戯言遣い」であることが主人公の資格として要されるらしい。
 さて、偽物語の本編についてであるが、作者はあとがきでこれ自体でも楽しめるといったことを書いているが、俺は前作から読んだ方が良いと思う。もちろん阿良々木火憐・月火という、化物語であまり中心人物ではなかった者に焦点が当てられているので、表面的にはぱっとこの作品で出てきた者の話という感じはするが、実際は彼の作品は「群像劇中で極めて劇的な人々による喜劇」なので、化物語で登場した「極めて劇的な人々」の描写が、この作品の中での主要人物である妹達を自然な形で凌いでしまっている。つまり、シリーズものの続編としては順当な作品だが、これ単体をある意味「読み切り」として楽しめるかと言えばそれは保障できない。都合の良いことに「極めて劇的な人々」は大半が十代で、怪異への遭遇をある意味口実として彼らが人間として成長する姿を見ることが、「物語シリーズ」としての偽物語の価値だと俺は思うので、偽物語においても「主要登場人物」と言える前作の登場人物達の未熟さが描かれていた化物語は、偽物語を読む前に読んでおく方が良いだろう。少なくともその方が楽しめるだろう。
 また、肝心の妹等を含む新キャラについてだが、実はこの作品で最もキャラクターとして秀逸な登場人物だったのは上記した妹達ではなく詐欺師の貝木泥舟だと思われる。なぜなら彼は「極めて劇的な人々」の中ではほとんど唯一と言っていい明確な「悪」であり「黒」であり「影」だからだ。これまでの主要登場人物は結局のところ正当な理由をそれぞれ抱えて悩んだり戦ったりしていたが、この貝木泥舟は作者によって劇的な悪として主人公達と全く反対の価値観を持った存在として描かれている(もっと言えば明確に「戯言シリーズ」の西東天のオルタナティブである)。なので必然的に彼は「成長」から外れた大人でなければならなかったし、怪異の存在を認めない者でなければならなかった。この意味で、実は火憐や月火の代わりは他の「主人公サイドの」主要メンバーでも良かったが、貝木泥舟の代わりは誰も居ないのである。なので俺は偽物語で一番価値のある描写は貝木泥舟の描写だったと思っている。普段西尾維新にうんざりしている人でも貝木の描写だけは耐えられるかもしれない。

2012年3月16日金曜日

家庭科教室をめぐる争い (1)

北島(弟)のもたらした情報によれば、二階堂グループは本日午後15時50分のチャイムを合図に僕たち「イタリア料理同好会」が拠点としている1階の家庭科教室に攻め込んでくるとのことだった。「奴ら本気みてえだ・・・」と1学期の家庭科の時間、裁縫で作ったクマの刺繍が施されたエプロンに身を包んだまま、北島(弟)がつぶやいた。僕は素直に北島(弟)の情報収集能力に感嘆していた。この「イタリアン料理同好会」の発起人たる北島(兄)と同様、北島(弟)は要所要所で自らの身を危険に晒す勇気を持っている。
 しかし、北島(弟)の言う「15人」という相手の数を聞いて僕は焦っていた。「イタリア料理同好会」は未だ「同好会」で、いわゆる正式な「クラブ」ではなく、はっきり言って僕たち内輪の集まりみたいなものである。何より戦闘経験が浅い僕たちにとって、数で勝っている二階堂グループと争うことはプレッシャーであった。僕は机に備えてつけられているシンクから目を反らし、黒いカーテンで覆われた窓の方を見た。カーテンの表面のごわごわした感触が想像できるようだった。
 僕たちの「イタリア料理同好会」は、北島(兄)・(弟)の家で僕と古川と北島(兄)の3人で「大乱闘スマッシュブラザーズX」をプレイしていた際に、ふと古川が「イタメシって何か知ってる?」とつぶやいたことが事の始まりである。古川の兄は古川より8つも年が離れていて、近所のファミリーマートで店長をやっている。古川によれば、「イタメシ」という言葉は彼が古川に僕から借りたままになっているエロ本を得るための代償として渡した初代プレイステーションの中に入ったままであった「サガ・フロンティア」で登場したらしい。僕としてはそこで初めて僕の大切なエロ本が彼の兄に又貸しされていることを知ったのだが、それよりも僕たちは「イタメシ」という語感に魅かれていた。
 その日、僕は家に帰った後、いつもエロ情報を探すことにしか使っていないパソコンを利用して「イタメシ」という言葉を検索してみた。なるほど「イタメシ」というのは一般的に「イタリア料理」を指す言葉らしい。僕はもちろん今まで自分の意識の中で料理をカテゴライズしたことがなかったので、一体どんな料理が「イタリア料理」と呼ばれるのか気になって、エロ動画をダウンロードし過ぎて重くなったインターネットエクスプローラーを駆使していろいろな「イタリア料理」の画像に目を通した。
 なるほど、スパゲッティやピザが日本ではメジャーなイタリア料理として認識されていることが分かった。しかし僕がこの検索において得た概観は「イタリア料理」=多分いけてるという漠然としたものであった。すなわち日本という国で社会通念上の「高級料理」の筆頭が「フランス料理」として中高年の口から出ているのに対し、「イタリア料理」は何か少しだけ斜め上を行っているような気がするのである。それはカタカナ英語の代わりに謎のスペイン語を多用する「BLEACH」が何かかっこいい感じがしたり、AKB48の代わりに洋楽を聴いているヤンキー連中が何かよく分からないけどかっこいい感じがしたりするのと同じだった。つまり僕は完全に中学生生活のど真ん中に居たのである。

2012年3月9日金曜日

Core と Penumbra

H.L.A.ハートという20世紀を代表する法思想家が居る。NYUに通っているのだからドウォーキンに触れるべきだと思うのだが(俺は多分一回Vanderbilt Hall付近ですれ違ったと思う)、最近憲法の授業で触れたGriswold v. Connecticutの判例で、多数派意見を書いたWilliam Douglasが、判例中に"Penumbra"という、通常の英語の文章ではまずお目にかかれない「法の概念」内でハートが展開した自身の司法裁定論を説明する際に用いた用語を使っていたので、ハートを思い出した。
 ハートが自身の司法裁定論の中で展開したCoreとPenumbraの概念についてものすごく簡単に言及しておこう。彼はあらゆる法律には「意味が万人に確かであるCore(中心)」の部分と、「意味が不確かで構成的な解釈が必要とされるPenumbra(半影)」が存在すると考えた。Coreの部分については裁判官が自身の裁量を展開する余地は極めて狭いが、Penumbraの部分については、裁判官がそれぞれ法の構成要素とされる「何か」、日本の判例で言えば「社会通念」などの政治的かつ構成的な解釈によって法を創り出す必要があり、その限りにおいて法は不確実性を有することとなる(彼の司法裁定論はまだまだ長く、本当に説明しようと思うといつも通りシリーズ化する必要があるのでここでは省く)。
 DouglasはGriswoldにおいて、明示的にこの概念を利用して自身の法理を展開している。Griswoldは、いわゆるプライバシーの権利について、アメリカの最高裁が初めて言及した重要な事例である。Douglasは、前提として修正第9条にある通り合衆国憲法は憲法内に列挙されていない権利を認めないわけではなく、人民が有する「根本的な権利」については、法的に保護されうる価値であり、「プライバシーの権利」を明言する条文は憲法内に存在しないものの、修正第3~5条のPenumbra(半影)の部分において、憲法は個々人のプライバシーが保護され得ることを黙示していると述べた。例えば、修正第3条はCoreの部分だけを読むと軍隊の舎営の制限という、軍人の有する権利に関するネガティブな制限として解釈されるが、他方で平時における「軍人の舎営によって個々人の生活の平穏が乱されない」という、プライバシーの権利の構成要素についても言及していると解釈されうる。彼は憲法の条文のPenumbraの部分において、人々が有する根本的な自由の前提である「プライバシー」という価値が含まれていると解釈したのである。
 Griswoldの判決が言い渡されたのは1965年であり、時期的にもハートが「法の概念」を発表した1961年に極めて近い。この時期はJudicial Activismが輝きを放ったWarren Courtの時代であり、GriswoldはWarren Courtの最終期の判例である。Douglasは、自身の法理の中にハートの司法裁定論を取り入れることで、次の時代における予期された市民権の拡大・人権理念の拡大に着手し始めていたと言えるのではないだろうか。

2012年3月5日月曜日

最近のアドパにおけるMHP3HD事情(2012年3月現在)

MH3Gをもう売ってもいいぐらいにはプレイしたので、久しぶりにMHP3HDでアドパに行ってみたのだが、目に見えて改善されていたので安心した。具体的に言うとプレイ中に突然フリーズするバグの頻度が劇的に減っているように思われる。アメリカから繋いでも減っているのだから、日本国内でプレイする分にはもっと安定しているのではないだろうか。とりあえずこの週末やった分ではたとえPSPが混じっていたとしても1回もフリーズはしていない。
 他方で、集会浴場に入っても他の人の姿が見えないバグの頻度が上がった。もっとも「他の人が見えないので失礼します」等言って別の部屋へ行けば済む話なので、このバグの方が過去猛威をふるっていたフリーズバグよりはまだ対処しやすいし、無理やりPS3の電源を切る等しなくても済むので、ダメージは少ない。発売して半年以上経過してやっとまともに動くようになりつつあるというのも、企画そのものの練り直しを根本からする必要があったのではないかと言わざるを得ないことには変わりないのだが。
 MHP3自体について今更言うことはないのだが、MH3Gに比べてエフェクトが本当にマシである。MHP3が発売された当初はMHP3のエフェクトでさえMHP2Gに比べて劣化したという意見はあったのだが、MH3Gという、下手したらMHP3以下の作品が発売された現在では、MHP3やMHP2Gという過去の作品の価値が逆に上がったようにも思われる。当たり判定の問題に目をつぶればやはりMHP2Gの品質が群を抜いて良い。MH3Gをやってみて、アドパでの協力プレイや、やっぱりオトモは猫が良いという人はMHP3を、MHFの一部のモンスターや、ミラの名を冠する最初のモンスターであるミラボレアスと戦ってみたいという人はMHP2Gをすればよいのではないだろうか。

2012年3月1日木曜日

人種差別について

NYUに来てからなぜか履修している教科群や日常で起こる出来事が相互的にリンクすることが多いのだが、最近また1つの波のごとく俺の生活にたびたび登場しているのがこの人種差別の問題である。
 人種差別の問題は本当に奥が深い・・・らしい。「らしい」というのは、おそらく俺はまだ人種差別が根付いた社会の繊細さや、そういった社会で暮らす人々の人種差別問題に対する積極的・消極的な恐怖心を理解できていないと思うからだ。と言うより、普通に日本で暮らす限り人種差別の問題で心を砕く必要が少ない。日本の代表的な「人種の違い」を理由とする差別は在日韓国人に対する差別だと思われるが、本当にそういった問題で困った経験を持つ人間が何人居るだろうか。例えばアメリカの事例のように、日本において特定の公共交通機関で在日韓国人と日本人で乗ることができる場所が区別されるような、明確な「違い」を日常生活の中で実感する機会があったわけではない。また、他にもいわゆる部落差別が日本における差別の問題として代表的だが、別に「部落」に属する人について、憲法上日本国民としての公民権が否定されていたわけではない。個々の地域では差別の一定の制度化が進んでいたようだが、国家的な強制力を持って差別が法的に正当化されていたわけではない。
 アメリカにおける人種差別が日本と一線を画すのは、人種による差別が公共政策の一環として、明示的な強制力を持つものとして全国規模で実施されていた点だと思う。16世紀から19世紀という長い期間、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人は、多くの州において公共政策上、「明示的に」白人達によって搾取されるべき「物」であり、人権の保障された「人」ではなかったのだ。肌の色や文化や言語の違いは、アメリカにおいては単に個々の人間関係における差異の認識としてではなく、経済社会的な「格」の違いとして認識されていた。そして俺は未だに自分の経験として全然実感がないのだが、今でもこの意味での「格」の違いは残存している。
 強調した通り、この人種差別の問題が厄介な点は公共性を持っていたことだと思う。差別の公共性は差異が個別の人間関係内で収斂されるのを許さず、差異の社会化を図ろうとする。仮に1つの社会の方向性として、例えば奴隷制度という明示的な形で差異が公共性を有していた場合、自然に発生しうる極めて個別的な人間関係として、自分と異なる人間の存在を捉えることが困難になる。公共政策が差異を差別として同定することで、個別的な人間関係上の他者への評価が「歪まされて」しまうのだ。南アフリカのアパルトヘイトやアメリカでの奴隷制度などは、こういった公共政策上の価値判断に基づく歪んだ他者への評価を、各世代ごとに再生産することに成功したのである。
 このような人種差別に対抗する「戦略」として、アメリカでは市民権運動が起こったのだが、実は上述した個別的な人間関係上の差異と公共政策としての差別の違いを考慮すると、俺は自分の個人的な経験から、この戦略がTinker v. Des Moines Independent Community School District で登場する申立人の両親のように、運動への強制的な動員を迫る場合には問題があると思っている。
 俺が生まれた地域では部落解放運動(水平社運動に通ずる用語だと思われる)が活発に行われていた。俺はこれが嫌いだった。内容の正当性は認めるのだが、子供心にそのやり方に違和感があった。例えば小学生の頃は毎年この「運動」に熱心な団体が開く演劇を観に行くことを小学校に強制されていた。俺は友達と「お前もう観に行った?」といった内容の会話をしていたのを憶えている。これが俺は本当に嫌だった。演劇の内容の陳腐さは置いておくとして、何より「運動」への参加を「強制」するやり方が気に食わなかった。異なる人間に対する評価を「差別」として強制した人々と、それに対抗するために「差別」とは反対の評価を認識させるために「運動」として強制した人々に、考え方に違いはあるのかと思ったのだ。すなわち、問題であるのは、水掛け論的な他者に対する評価の違いという、実質的な部分ではなく、一定の評価や価値観を他人に「強制」するという手続き的な部分だと思ったのだ。
 例えば、1つの思考実験として、奴隷制度が存在しない状況で、白人と黒人が出会って自然に言葉を交わし、人間関係を形成した場合、なお白人は黒人を自分より劣る存在だと、「十中八九」思うのだろうか?黒人は白人を自分より上位の人間だと「十中八九」思うのだろうか?俺はこれは「否」だと考える。人間が他者との関係上、他者に対して下す評価というのは、それほど単純で形式化されたものではない。もちろん肌の色の違いというのは初めて目にした場合は驚きだろうし、人間が相対的に物事を考える傾向から、どちらかの人種はどちらかの人種を劣っている・優れていると考えるかもしれない。しかし、「十中八九」傾向のある考え方はしないだろう。上記した「強制」的な性質を持つ戦略は、この意味での評価に「傾向」をもたらし、それによって純粋な人間関係の形成を阻害する社会装置として機能しうる点で問題がある。
 このように考えると、国際人権規範上確立されている人種差別の禁止というのは、「公」と「私」の区別を前提にして理解する必要があるだろう。もちろん上述した通り俺を「運動」に強制した人々の正当性を完全に否定することはできないが、教条的に人々の私心にまで踏み込むような意味で規範の順守を迫ることは、自然な人間関係上の他者の認識に対する「不純」な傾向を生み出す点で抵抗がある。白人が黒人の大学への入学を人種を理由に断ることと、偶然知り合った白人の性格の悪さに辟易している黒人が居ることは区別されるべきである。俺が運動への参加を「強制」する戦略が嫌いなのは、後者の事例において自然な価値判断で人間関係を捉えることを許さないような傾向を生み出すかもしれないと、危惧しているからだと言える。