2011年7月29日金曜日

"GOOD LUCK MY WAY"

 ビザを入手した。
 こんなもんを入手するためにこんなに一生懸命になるとは思っていなかった。こんなに俺の障害になると思っていなかった。でもなんとかしないといけない状況になったら、なんとかなると思ってなんとかするしかない。「もうなんとかならない」(by麻倉葉)と分かっていても「なんとかなる」(by麻倉葉)と思うしかない。今のところ俺の人生はこの繰り返しである。多分今後も俺はそうする。そうやって生きていくしかないからだ。
 そして、ビザを入手したということは、やっと俺の旅が始まるということを意味する。この時をずっと待ってたぜ。

2011年7月26日火曜日

もう一度「宇宙の話をしよう」

 実は現在クソのカスみたいな理由でまだアメリカ合衆国の地を踏んでいない。英文健康診断書の時と同じように、ここで言う「クソのカスみたいな理由」を作り出した人々(DS-2019を俺が2ヶ月ほど前に知らせている渡米予定日の1週間前にやっと送ってきた馬鹿共)を、俺は怒らないことにしようと思う。
 馬鹿に付ける薬は残念ながら本当に無いのだ。純然たる事実として存在しない。多分俺が怒鳴っても来年もこの「クソのカスみたいな理由」を作り出した人々は、「クソのカスみたいな理由」を作り出し続けるだろう。そして「クソのカスみたいな理由」を作り出すことに対して何の責任も負わないだろう。それが他人に迷惑をかけているという事実に対して何の感想も持たないし、毎日を機械のように(性能の悪い機械だな)「クソのカスみたいな理由」を作り出すための時間に充てるだろう。「クソのカスみたいな理由」を作り出して得たお金(なぜそれでお金が得られるんだろう?)でおかずやらご飯やらを買い、家に帰ってシャワーを浴びて、ご飯を食べて、テレビを観ながらビールを飲んで、「今日の『仕事(クソのカスみたいな理由を作り出す仕事)』も終わって今日も終わってめでたしめでたし」で1日を終え、次の日も同じことを繰り返すだろう。俺のような「卑小な」人間は、「訴訟」や「城」での手続きに巻き込まれたヨーゼフ・Kみたいなものである。カフカの小説が素晴らしい点は、こうした「クソのカスみたいな理由」と、それを生み出し続ける人々と、上述したように「馬鹿に付ける薬がこの世界には存在しない」という事実と、そうした事実が「卑小な」人々に迷惑をかけているということを「今そこにただ存在する出来事」として描いている点である。
 というわけで、ただ自分の夢と野望と志のためにアメリカで勉強をしたいだけの俺は、宇宙飛行士が「宇宙飛行士」として毎日を過ごすように、「自分の夢と野望と志のために勉強をしたいだけ」の人間として今のところ毎日を過ごすしかない。「クソのカスみたいな理由」を作り出し続ける人々と同じように、俺は俺として大きな夢と野望と志を持ち続けて、毎日を生きるしかない。少なくとも言えることは、俺は「DS-2019を小学生でも「非常識」と分かるような時期に送ってきて迷惑をかけても全く謝罪もしないし責任も取らない人々」の一員ではなく、ただ「自分の夢と野望と志のためにアメリカで勉強しようとしている人々」の一員だということである。

2011年7月21日木曜日

鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星 感想

 日本を出る前に日本で作られた映画を観ておこう、ということで丁度やっていたハガレンの映画を観た。
 感想であるが、途中まで問題設定が分かりやすく一本道に作られていたのに、最後になって色々な(必要かどうか分からないような)どんでん返し+(新)キャラ登場があったせいで結構ぐちゃぐちゃになったものの、「ま、あんたはすげぇよ」という主人公の台詞や態度で「へーじゃあ良かったんじゃねぇの?」という「雑感」を得られた作品だった。
 まあFAになってから原作がほとんど丸々テレビで流れた(そして途中でコミックスを追い抜いて最終回に辿り着いた)作品だし、もう「終わっている」ので、この映画はおまけのファンサービスみたいなものである。そういった観点でこの映画を観れば、もう魔法みたいになっちゃってる錬金術も、途中まで異常に強くて人を殺しまくってた狼キメラの失速感が激しいことも、人2人やれば「あれ」ができるんだったっけ・・・ああそうかあの練成陣が「素晴らしい」ので正当化できるのかな?という疑問も、ほとんどライター扱いだったあの人も、全て許容することができ、まあちゃんと全部出るべきものは出てるから、この作品の原作が終わってしまって寂しい思いをしているファンは(保証はしないが)喜ぶのではないかと思う。
 1つこの映画で良かった点を挙げると、(魔法みたいになっちゃってることは置いといて)錬金術対錬金術の戦いが(やっと)まともに見られることだと思う。原作ではエドもアルも傷の男やホムンクルス達と戦ってきたのだが、「同格の錬金術師」と戦っている描写はあまりされていなかったと思われる。一応キンブリー対アルや、「お父様」との戦いなどは錬金術対錬金術なのだが、キンブリーは爆破しかしないし、「お父様」は最終的に謎のビームみたいなものを撃ってきたりして、この映画のように「いろいろなものを互いに錬成して戦うシーン」というものはそれほど存在しなかった。その点、この映画ではいろいろなものを錬成してテクニカルに戦う描写が沢山あるので、戦闘シーンは観ていて飽きるものではないと思う。

2011年7月16日土曜日

Drive a Truck!

 3年ぶりに自動車を運転した。できればやりたくなかったが粗大ゴミを捨てに行くためには仕方が無いので腹をくくって軽トラックを運転した。
 俺は住む場所が変わる度にトラックを運転することになってしまう。前回運転した際に事故を起こしたのでもうやりたくないと思ったのだが、今回も運転するはめになった。ニューヨークでは流石に無いよね・・・?絶対こんなん俺の人生では役に立たないと思っていた運転免許が案外要所要所で役に立っているらしい。
 しかしやりたくなかった運転も、やってみれば久しぶりで案外楽しいものである。運転したのはオートマの車なので、ほとんどマリオカートみたいなものだ(ちなみに俺は小学生の時にマリオカート64をやりこんで、ちゃんとマリオサーキットで1分30秒を切り、近くのゲーム屋に公式ライセンスカードを貰いに行ったことがある。あれはドリフトとキノコを使うタイミングが重要だった)。用事が終わって車を返すときに少し寂しい思いがあった。俺の人生で俺が自分の車を買って自分で運転する機会があるのか未だに不明である。ニューヨークに居る限りは無いと思うが。

2011年7月15日金曜日

ビザ面接の思い出

 実は先週の金曜日ぐらいにビザ面接を受けに東京の米国大使館に行っていた。
 なので、実は「思い出」と言うまで記憶が風化していないのだが、非常に印象的に俺の記憶に刻まれた。俺は面接時間が朝9時ぐらいだったのだが、初めてビザ面接を受けるので少し緊張して、8時20分ごろにはもう大使館近辺にたどり着いていた。多分俺が一番始めの順番だろうから、少し待たされるのかもしれないと思ったのだが、別の意味で待たされることになった。ディズニーランドのアトラクション前のごとく、長蛇の列ができていたのである。
 正直これには少しびっくりさせられた。子供連れの家族から外国人まで実に様々な人が既に列を成していたのだ。皆一生懸命である。受付も担当していた警察官らしき人も大変そうだった。
 かなり長い時間待たされた後、複数のセキュリティチェックを受けて内部に入るのだが、内部は俺の想像と全然違っていて、映画館のチケット売り場みたいな感じになっていた。「面接」も一瞬である。名前と渡米目的と俺がフルブライターだということぐらいしか喋っていない。指紋を採る時間の方が面接よりも長かったかもしれない。
 しかし、俺はDS-2019無しで面接を受けたので、当然不許可の通知が(その場では)降りた。実はビザ面接には抜け道っぽいものがあり、東京の米国大使館に限りDSなしでも面接が可能なのだ。当然DSなしでやった場合はその後に再び署名入りのDSを大使館に送らなければならないので、二度手間になるし手続き的な問題があるのでやるべきではないが、俺の場合は渡米まで3週間を切っているのにまだDSが来ていないという意味不明な状況だったのでやらざるを得なかった。人生初のビザ面接が抜け道っぽい手続きだったというのは本当にたどたどしくていかにも初めて外国に行く人らしい。フルブライトも狙って俺になかなかDSを出さなかったのかもしれない。

2011年7月12日火曜日

斜陽 感想

 太宰治の「斜陽」を読んだ。
 適当に物語の筋(筋なんてあるのか)を説明しておくと、田舎で生活していた没落貴族であるかず子と、そのかず子が「崇拝」している母の下に、かず子の弟であるヤク中の直治が戦争から帰ってきて、ろくでもない生活を送っている作家の上原を含めて、(この文脈だったらまあある意味順当に)皆それぞれ苦悩を抱えていく・・・という話である。
 太宰治はいい意味でも悪い意味でも純粋な目を持っている。彼は本当に透き通った真実を描くことに長けているが、描き出される真実は全然人を喜ばせる類のものではない。「普通」に生活している人が必死で隠そうとしている類の真実である。彼の目にはおそらくこの世界はそういった喜ばせる類のものではない真実が満ちているように見えていて、物を書く力があるが故にそれをほとんどそのまま「透き通った真実」として読者に見せることができる。彼の本を読むと、本当に文章を書くことということは、村上春樹が指摘したように「救い」にはならないということが分かる。彼は書かなければならない物語を書き、書いた物語で多くの人間に「欲しかったもの」を与え、(多分)彼の「欲しかったもの」を彼は手に入れられないまま、命を絶った。
 さて、「斜陽」は、(少なくとも多くの読書家には)説明する必要のないほど有名な太宰治の小説である。「斜陽族」という現象が起きたように、多くの人間がこの本で描かれている「真実」を欲しがった。登場人物の数は少ないが、読んだ本の解説にも書いてあったように、俺はこの本を読んでドストエフスキーの作品を想起した。全く違う国の話で、ドストエフスキーの方は登場人物も多いが、それでも描いている「真実」には通底する「寒々しさ」がある。特に上原や直治のような役割の人物を見ると、スヴィドリガイロフを筆頭に、ドストエフスキー作品で登場する、どうにもならない現実を別の「現実」を与えてくれるようなもので誤魔化すものの、結局誤魔化した方が、より「良く」どうにもならない現実を見てしまう人々を思い出させる。
 また、この作品の中でかず子をどう理解するか、という点は非常に興味深い。読む人によって、彼女がこの物語の中で辿り着いた結論が「破滅」なのか「再生」なのかという点で解釈が分かれると思う。俺が凄まじい文章だなと思ったのは、「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないのでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。」という部分である。こういった終盤の彼女の考えが、上原など、自分から去って(滅んで)行った人々との決別を意味しているのだとすれば、彼女は自分を「再生」したのかもしれない。
 

2011年7月7日木曜日

蕎麦

 アメリカより日本で食べた方がかなりの確率で美味しいものの筆頭が蕎麦だろう。と思ったので蕎麦を食べてきた。
 食べ過ぎた。量というより普通のざる蕎麦を大盛りにして食べたので、質の点で途中で飽きてしまうという問題が発生した。しかし結果的にはもう半年以上は蕎麦の顔も見たくないという状態になったので、これでアメリカで蕎麦を食べたくならずに済む。
 東京には蕎麦屋が多い(と思う)。俺はかなりの確率で東京で蕎麦を食べている気がする。つゆは濃い。濃い味以外の特徴として、関東の蕎麦屋では高確率でそば湯が食後、もしくは食中もう大部分食べ終わったのでしょう?というのを見計らったかのようなタイミングで出てくる点が挙げられる。しかも説明無しで登場する場合もあるので初体験の人は大変である。俺の場合はそこら辺の食券を買って頼むシステムの蕎麦屋で、俺がまさに鴨南蛮を食べ終わらんとしたときにすっと店のおやじが急須のようなものを持ってきて「蕎麦湯です・・・これをつゆ・・・・しゃい」とか、途中何を言ってるのか分からないような説明を受けて困惑した覚えがある。まだ食べ終わっていなかったので、「これでつゆを割って下さい」という意味なのかと思って、なるほど関東のつゆは濃いからな、だったら最初から薄いつゆにしろやそしてもっと早く持って来いやと思ったのだが、隣で食べていた人をこっそり見ると、食べ終わった後に残ったつゆの中に湯を入れて飲んでいるのが見えた。
 戦慄が走った。東京のざる蕎麦のつゆなどは本当に醤油みたいなものである。それを飲むなどこの人は大丈夫なのかと思ったが、これは試してみるチャンスだと思ったので、後で絶対ググってこいつが大丈夫なのかどうか暴いてやろうと思いながら、食べ終わった後彼の真似をして鴨南蛮の残りのつゆの中にどばどば「蕎麦湯」と呼ばれる液体を入れて飲んだのが俺と蕎麦湯の出会いであった。
 調べてみるとニューヨークにもSoba-yaという「小学五年生」とかの漫画で登場してきそうな安っぽい名前の蕎麦屋があるらしい。ニューヨークのそばつゆは薄いのか濃いのか楽しみである。少なくとも今は全然行きたくないが。

2011年7月6日水曜日

新選組血風録 感想

 司馬遼太郎の「新選組血風録」を読んだ。俺にとっては「人斬り以蔵」、「燃えよ剣」に続いて3冊目の司馬遼太郎作品である。
 この人の文章の特徴は、「無骨」という点に言い尽くされるだろう。ヘミングウェイのようにできる限り修飾語を排して短文で文章を構成する特徴に加えて、この人は人に媚びるような(分かってくれとこちらに訴えるような)描写はせずに、あくまでこちらの構成的な解釈とは無関係であるかのように1つの情景が現実世界で流れるように文章が書かれている。特に読者は斬り合いのシーンでそう感じるのではないだろうか。
 こういった基本的な文章がもつ性質に加えて、この人の「過去を視る目」というのは個人的には面白い。なぜなら、彼は過去の出来事をそのまま「過去に発生した出来事」として描くのではなく、あくまで現在文章を書いている自分の視点で描いているからである。なので、現在では過去の歴史上の出来事はどのように理解されているのか、現代人の視点から見て過去の出来事をどう解釈すればよいのか、ということが文中で示されることがたびたびある。こういった性質は「歴史マニア」であることを文章を読むために要さない点で有益だろう。一言で言ってしまえばとっつきやすいのだ。
 さて、上に挙げた「燃えよ剣」が土方歳三の生涯を描くことに焦点が合わせられていた作品であったのに対し、今回取り上げる「新選組血風録」は、「新選組」という、1つの「武装集団」(勤皇と佐幕という、相対立する2つのイデオロギーの表れが攘夷志士と新選組であるとするならば、「武装集団」という言葉は表現するに足りないが)を巡る様々な出来事を描いた物語である。今は歴史ブームのおかげでわざわざ語る必要が無いかもしれないが、少なくとも1つの「佐幕」というイデオロギーを持って結成された「武装集団」ではあったが、その内に所属する人々は政治的というよりは「人間臭い」思想に従って行動していたということを描き出した点で、この作品には価値がある。幕府を支える治安維持組織というのは歴史の教科書的な理解であり、局長の近藤勇は「侍になりたい」という純粋な野望ゆえに新選組を作り、土方歳三は侍を体現する新選組という組織の存続に全てを賭けて死んだのだ。そしてこの「武装集団」を構成した人々も、この組織で権力を得るために「政治」を行った谷三十郎や、反対に権力に関心の無い沖田総司や井上源三郎、この組織を自分の思想のために利用しようとした伊藤甲子太郎、小つるとの安寧欲しさに怯懦に陥ってしまった鹿内薫など、1人1人自分の思いを持った人間が1つの「武装集団」の中に居たのだ、ということが描かれている。
 俺はキングの作品の感想を書いた時に何度か述べたように、きちんと人間を描こうとしている物語が好きなので、そういった観点からは「胡沙笛を吹く武士」や「沖田総司の恋」などについて語るべきかもしれないが、物語として真っ直ぐな美しさを持っていたのは「菊一文字」だと思う。キャラの立ち具合からすればずるいと言われてもおかしくないほどの性質を持った人物として描かれていた沖田総司故に「菊一文字」で描かれているような、「これが侍を描いた物語だ」と言えるような「真っ直ぐ」な展開が生まれるのかもしれない。なぜ彼があらゆる表現媒体で常に美青年として描かれなければならないのかということは、司馬遼太郎の作品を読めばなんとなく分かる。