2010年4月13日火曜日

呪いのお話

 俺は呪いの手紙を見た事がある。と言うと何いきなり電波を発しているんだと思う方もいらっしゃるかもしれないが、実際に人間の憎しみがこもった手紙というものが、俺の祖母と母親に届いたことがある。文章の内容を具体的に思い出すことはできないが、なぜか全部カタカナ(国語の教科書に載っているような昔の文章みたいな感じだ)で表記されていて、「オマエハイナクナッタホウガイイ」的な事が書かれていたことを覚えている。まだ俺の頭が今より大分悪かった時の話なので、誰が送ってきたのか等を知ろうなどとはせず、ただ不気味だったという記憶しかない。しかし、祖母や母親が時折微かに漏らす話を聞くと、彼女達をいじめたり、憎んでいる人(人々?)が同一地域に居住していたらしい。どうも祖母の「他人を見返したい」という反骨精神はその辺りに由来しているらしく、俺は「偉いもんになれ、博士になれ、大臣になれ」という念仏を祖母に聞かされながら育った。祖母の祈り(呪い?)は功を奏したのか、結局俺は修士を取って博士課程に進学してしまった。大臣になるつもりは無いが。
 「人を呪わば穴二つ」という有名な言葉がある。人への呪いはいつか回り回って自分への呪いへ転じる、ひいては人を呪うのであればそれなりの覚悟はしろという戒めの言葉である。「鬼神童子ZENKI」という漢字(と狙いすぎたお色気シーン)がいっぱい登場する懐かしい漫画で言われていたあれである。まあ、他人を憎むことと自分への被害に特段の因果関係は実際のところは存在しないだろうが、そもそも他人へ憎しみを持つことで打開できる事態(そもそも打開しようとする気概ではない)は少ないだろう。文字通り何も解決できない。憎しみによって相手をこの世界から消去しても結局記憶を消すことはできない。一瞬のカタルシス(の擬似めいたもの)を感じて終了である。その後に続く自分への負荷を考慮した行動ではない。
 考えてみれば、憎しみを相手に発する行為自体、実は愛情の裏返しである。自分の価値観を相手に理解(承服)させ、自分の正当性を相手に主張する行為に他ならない。俺はサントリーミュージアム[天保山]で行われていた「井上雄彦 最後のマンガ展」へ行ったことがあるが、展示されていたマンガの中で武蔵が自身の父親である新免無二斎へ向かって言った「憎しみだってつながりだ。」という言葉が呪いの全てを語っていると考えている。結局の所、自分の主張(憎しみ)を相手に伝え、それを認識させ、理解してもらうという一連のプロセスを経なければ、自分の満足は得られない。結局他人を呪うということは、他人を否定しているようで実は他人を尊重しなければ成立しない感情なのである。本当に他人を否定したければ、そもそも無視すれば済む。「憎い」と「どうでもいい」はやはり違う感情だと言える。
 と、客観的に考察し、言葉にできたとしても人間の感情はもっと深く、複雑である。より正確な言葉で言えば、そういった深さと複雑さが個別化されたものだといえる。つまり、他人の言葉による影響は、理解を導いても自分自身の納得を導くことは少ない。具体的な文脈に沿って他人を憎んでいる者が俺の文章を読んでも、「じゃあ明日から他人を憎むことを止めます。意味ないし」といった態度を取る可能性は低い。結局自分と折り合いを付けるのは自分以外存在しないし、それは人生にある多くの選択と等価値の、個人の自由な領域に属する。こういった考察をすると、南アフリカや東ティモールで行われた戦争犯罪者とその被害者の和解事業である真実和解委員会の試みが、いかに無謀(不毛と言ってもいいかもしれない)な試みか、理解できる。10年以上の個別的・具体的な呪いの文脈と、個人を折り合わせる技術は、まさに「人類の希望」、ドラえもんの道具に近いと言ってもいいかもしれない。
 他方で、真面目に生きている人々の多くが「そんなもんやってみないと分かんねえだろが」という人間の可能性を信じており、そういった(時折)無茶な試みの連続が、現在の文明を築いたし、多くの人間の気持ちを繋いできた。この「そんなもんやってみないと分かんねえだろが」という気持ちも、「オマエハイナクナッタホウガイイ」という気持ちも、等しく人間の「他者への繋がりに対する願い」であり、その意味では少なくとも「どうでもいい」という結論に、人間はまだ落ち着いて無思慮になっていないだけましということだろうか。
 

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